第2話 初恋とは実らないもの

「階段から転げ落ちたと聞いて驚いたぞ」

「ご心配おかけて申しわけありません」


 深い溜め息を吐く父ヴィクトールに苦笑する。

 踏み外して数段滑り落ちたとこが宰相であるお父様のところにいくまでに大げさに脚色されたみたい。


「お前が謝る必要はない。謝罪すべきはあの糞餓鬼だ」


 鬼宰相と言われるお父様にとっては皇帝陛下も糞餓鬼になるようだ。



 私が生まれたペトロフ侯爵家は建国の功臣の一人であり、それから今までずっと皇帝とその家族を様々な形で支え続けてきた。


 お父様は先帝ドミトリー陛下とご親友同士で、口では腐れ縁だと言いながら我が家によく来てひたすら愚痴る先帝陛下の相手をする姿は嫌そうではなかった。


 先帝陛下が皇帝という立場にあることは知っていたが、我が家での姿からは到底この国の頂点には見えず、私が幼い頃であることもあって先帝陛下は親戚の小父さんみたいな態度で私に接していた。


 先帝陛下が陛下を連れて正式に我が家を訪問したのは私が十歳の頃。

 陛下と兄アレクサンドルは同じ年ですでに仲が良かったが、私はそのとき初めて陛下にお会いした。


 あとから知ったがあの顔合わせは見合いのようなもので、恐らく陛下は私を拒否しなかったから内々で少しずつ話が進んでいったのだろう。


 先帝陛下は一番に国のことを考える方。

 だから親友の娘であっても慎重に后としての素質があるか私を見極めていたのだろう。


 それを恐らく陛下はご存知で、その後はおひとりでペトロフ侯爵邸に来ることが増えて、お兄様とだけでなく私とも一緒の時間を過ごすようになって私は陛下に憧れと淡い恋心を抱くようになった。


 初恋だった。


 十二歳になった私に内々だったが陛下との婚約の打診があった。

 すでに九割は形が整っていたが、正式なものになる前のそれは私に将来この国の皇后となる覚悟はあるかと問うものだった。

 

 陛下が私を望んでくれるならばこれ以上の喜びはない、そう思った。


 その旨をお父様が先帝陛下に伝えると、陛下から求婚される形で婚約者となることに話が決まり、私はその日を楽しみにしていた。


 しかしその日に陛下が求婚したのは私の従姉妹のナターシャだった。


 その日陛下はペトロフ侯爵邸に遊びに来ていたナターシャと花が盛りのバラ園で出会い、先帝陛下とお父様、そして私の前でナターシャに求婚した。


 それからのことはお父様から伝え聞いただけだが、若い二人の恋は一気に燃え上がり、先帝陛下を筆頭に周りが二人の婚約を認めなかったことが二人の暴走を加速させた。


 皇太子の后は伯爵家以上の家格を持つ令嬢から選ばれることになっているが、それは法律でもなく何となくの決まりでしかないと陛下は子爵令嬢だったナターシャを后にと強く望んだ。


 先帝陛下もお父様も頭が痛いことだっただろう。


 法律でなくても何となくできあがったルールにはそれなりの根拠があるもの。

 法律で決まっているわけではないから子爵令嬢でもいいだろうという陛下のその考えは申しわけないが浅慮である。


 皇后はロシャーナ帝国の女性の第一位、当然女たちの女たちによる社交界のトップに君臨する存在。

 貴族制がある以上、皇后の家格はかなり重要である。


 子爵家では到底足りない家格を補うためにペトロフ侯爵家が後ろ盾になると言い出した先代侯爵であるお祖父様とお父様は屋敷が一部吹き飛ぶほどの激しい言い争いをしたらしい。


 お祖父様は早くに亡くなった伯母様の娘であるナターシャをとても可愛がっていらっしゃった。

 しかしその判断は正常なものとはとても思えず、氷魔法を使うお父様に「頭を冷やせ」と氷漬けにされ、その後風邪を召されたのを機に家督をお父様に譲っていまは領地で隠居なさっている。



 最後の砦といえるお祖父様の隠居で二人は婚約を諦めたかといえばそんなことはなく、二人は既成事実を作るという強硬策に出た。

 そしてナターシャの純潔を奪った責任を取る形で先帝陛下は二人の婚約を認めざるを得なかった。


 先帝陛下には両家の間でほぼ決まっていた婚約を破棄したことを謝罪されたが、この一件で憔悴しきった先帝陛下に「畏れ多い」の一言も言えず黙って謝罪を受け入れた。


 帝国の未来に不安しかない二人の婚約式に出席する者は少なかったが、私たち一家はペトロフとして今後も変わらず皇族を支え続けるという意志を見せるため参加した。


 幸せそうな主役を必死に笑みを顔に張り付けて祝福し、その夜は部屋でこっそり泣いた。


 こうして私の初恋は一旦幕を閉じ、私は家族に失恋を悟られまいと「殿下よりも素晴らしい婚約者を探してください」とお父様たちにお願いした。


 これがよくなかったらしく、お父様は気合いを入れてよほど条件を厳しくしたのか婚約の「こ」の字も聞くことはなかった。


 それなら自分でと積極的に茶会に出席したものの、付いてきてくれたお兄様に「焦らなくてもいいじゃないか」と慰められるくらい成果はなかった。


 おかげで二度目の恋どころか婚約者も見つけれずに成人してしまったが、焦っていなかったのは周りに婚約者のいない令嬢令息が沢山いたからだ。


 その社会現象の原因は陛下が依然ナターシャとは婚約関係であったことにある。


 先帝陛下は二人の婚約を認めはしたが、結婚にはナターシャの皇太子妃教育が完了したらという条件をつけたからだ。

 そして五年たってもナターシャの皇太子妃教育は二割も完了せず、礼儀作法を何度か教えた母ソフィアは一生無理だと言っていた。


 母は鬼のように厳しい指導をしたかもしれないが鬼そのものではない。

 早々に無理だと匙を投げたのはナターシャ本人にやる気がなく、本来なら死ぬ気で受けるべき教育を「体調が悪い」「やる気が出ない」で逃げ続けたらしい。


 母のように多くの講師陣が匙を投げたため、陛下たちの婚約はいずれ白紙になる、そうなればうちの娘にもチャンスがあるからと多くの令嬢たちの婚約が先送りされたのだった。


 実際にお父様は何度もポポフ子爵ナターシャの父親に皇太子妃辞退を進めたらしいが、子爵はそれを断固拒否していた。


 二人の婚約は陛下が責任をとった形での婚約なのでナターシャが皇太子妃辞退するしか方法はなく、ナターシャを亡き者にして新たに婚約者を選定するという手もあったが先帝陛下はそういう決断が苦手なのでその手は使わずにいたようだった。

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