恋心を捨てた皇后 ― ずっとあなたが好きでした

酔夫人

第1話 あなたがずっと好きでした

「皇后!」


 視界に広がる陛下の顔を見ながらぼんやりと、焦った顔も様になると思った。

 ニコライ・ドエフ・ロシャーナ、このロシャーナ帝国の若い皇帝で私の夫だ。


「痛みはないか? 気分は?」

「どこも、何も……何があったのです?」


 そう尋ねると陛下が目を見張る。

 少し考える素振りを見せたあと気まずそうに口を開いた。


「君は階段を踏み外してしまい、数段ほど落ちた拍子に頭を打って気を失ったんだ」


 転んで頭を打つとはなんという醜態。

 それで自分は抱き起されているのかと分かり、反射的にこの迷惑を詫びようとしたが詫びる必要はないと思った。


 階段を踏み外すほど動揺させたのは陛下だ。


「痛みは? 目眩はしないか?」


 いつもは自分に無関心な陛下の心配そうな声と表情に嗤い返したくなる。


 『あのとき』以来初めての優しさ。

 それが後ろめたさからだと思うと本当に嗤ってしまう。


 ……ああ、やっと諦めがついたのね。


 陛下を前にして心が一切揺れない。

 触れられたら荒れ狂う感情が凪いでいる。


 陛下を愛していた。


 でも陛下にとって私は彼の婚約者だった従姉カテリーナの死に乗じ、ニコライに薬を盛り体を使って婚約者の座に就いた卑怯な女。


 そんなことはしていない。

 だけど陛下の勘違いを正したことはない。


 ずっと好きだった。

 例え理由が「仕方がない」でも陛下の后になりたかった。


 ――― 君を愛することはない。


 そう言われるのは当然。

 でも傍にいれば愛されるかもしれないと思った。


 恋愛物語を読み過ぎたのだろう。

 人の感情は理屈ではないのに。


 私の感情も理屈で制御できなかった。


 愛されていない、憎々しくさえ思われているのに陛下に冷たくされるたびに傷つく。

 泣く資格もないのに胸の痛みに耐えられず涙を流す。


 愛されるかもしれないという期待が痛みと涙を連れてくる。


 でもそれはもう終わり。

 泣きたくないなら期待しなければいい。


 愛されないのは「仕方がない」。

 もう期待しない。


 久しぶりに心が軽くなった。

 もう苦しくない。


「侍医はまだか!」


 そう叫んだ陛下の向こう、窓から見える青い空に目を細める。

 とてもきれいだ。


「空は……こんなに青かったのですね」

「皇后?」


 しばらく空を見ていなかった。


 子ができない私に「結婚されてまだ二年ですから焦らずに」と慰めた者たちが陰で「子も産めない石女うまずめ」と嗤っていることも知っている。


 陛下に皇妃を娶るよう進言すべきだと遠回しに言う者や「自分なら直ぐに」と挑発的に笑う女性たちとのやり合うのにも疲れて、最近はいつも俯いていた気がする。


「もう大丈夫です」


 ずっと好きでした。


「陛下」


 さようなら。


「あとは侍女たちに任せ、陛下は仕事にお戻りください」

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