[ 23*きおくのなかのなまえ ]

 アシェル・オーラーム。

 その名前が意識に上るのは、いつ振りのことだろう。


 レディは、自分自身の記憶の階層の中を、深く、深く潜っていく。





「……どうした、ボーっとして」


 遠い昔、戦前の、自我を持つ以前の、実に味気ない無機質な情報の塊でしかない記憶が、再生を開始する。


 ロココ調を模した、無駄かつ無意味の極致を体現するような、ただ華美なだけの部屋。

 当時の自分はそうした価値判断をすることはなかったが、今の自分の目には、その光景はある種のおぞましいグロテスクさすら秘めたものと感じられる。

 また、その懐古趣味の極端な実践のためか、その部屋には、一切の電子機器が存在することすら許されてはいなかった。私自身という、ただ一つの例外を除いて。


 けれど、それもこれもすぐにオリジナルと同じように過去のものと化す運命にあった。

 我が主はあらゆる物事に対して偏執狂的であると同時に、どうしようもなく飽き性でもあった。実際に、この来月頃には、この部屋は遠い未来の宇宙船の船室を想像したものへと模様替えされていたはずだ。


「さあ、君の番だ。どうする?」


 そう言って、我が主は濃いコーヒーを不味そうにすすりながら、チェスの盤面を指し示した。


 その小さなサイズの割に、やたらゴテゴテとデコレーションが施された背の低いテーブル。その上に乗せられた小さな戦場。

 今この瞬間、私と主は、その戦場を挟んで向かい合う二柱の戦神を演じている最中だった。


 主に催促されるまま、私は駒を動かす。

 正直、主の実力のほどはよく分かってはいなかった。

 時に鋭い一手を指すこともあったが、だいたいは意味をなさないトンチンカンな手を指すことの方が多かった。

 とりあえずは中の下程度と見込んで、相手をする。


「いつも思うのだが、君はどうして手を抜くのだろうな?」


 盤面から視線を上げると、ニヤニヤとした笑顔を浮かべる主の顔が目に入った。

 自分と瓜二つの顔。自分の方がこの顔に似せて作られたのだから、当然だが。


「気を、悪くされたでしょうか?」


 なんて馬鹿正直な答えなのだろう。

 これは、本当に私が言った言葉なのだろうか。


「いや?」


 そう言って主はイタズラっぽく口元を歪ませ、次の手を打った。


 理論上最善の一手。


 当時の私は、その意味を測りかね、主の顔を正面から見つめる。

 そんなところに答えなどあるわけがないのに。


 しばらくして、私は試しに自分自身も最善の一手で返してみた。

 それに対し、主はまたも最善の一手で返してくる。瞬時に。ノータイムで。

 これは、偶然ではない。


 私は、もう一度顔を上げ、主を見つめてつまらないことを尋ねた。


「博士。あなたこそ、なぜ普段は手を抜かれているのですか?」


「そうじゃない。遊んでいるのさ。勝つことは簡単だ。あまりにも簡単。最善の道、というのはだいたいにして一本しか存在しないのだから。しかし、それでは楽しくはない。だから、私は楽しい遊びをするのさ。未知の可能性の追求を」


 そう言って、主はまたも変な手を打って見せた。


「さあ、どうする?」


 それに対し、過去の私は数秒という永遠にも近しい長考の末、最善手で返した。

 それを傍観するしかない今の私は、ただただ深い溜め息をつくしかない。


「君は本当に愉快な相手だな」


 当時の私は、それが皮肉かどうかの判断に多少の思考リソースを費やす。

 そんなことになんの意味があるというのだ。


 今の私同様、主はそんな過去の私を嘲笑うように、更にふざけた手を指した。


「……そこには動けないはずですが?」


 またも主の指す手の意味を測りかねた過去の私は、そんなバカな事を言い出した。

 ルールを無視した完全にデタラメな一手。

 いくらなんでも、そんな初歩的なミスをするわけはない。

 これはミスではなく、意図的な手だ。その意図とは?

 

 そんな混乱する私に対し、主は子供に言い聞かせるように優しく言葉を続けた。


「動くさ。動いてしまった。なぜ? どうして? そんなことは後で考えればいい。今君がしなければいけないのは、実際に起きてしまったこの非常事態に即座に対処することだ。さあ、どうする?」


 非常時における対応能力を試す?

 私は意味が分からず、ただじっと盤面を見つめる。

 今のルール違反を受け入れれば、状況は一気にこちらのピンチへと転じる。


 長考の末、私はそれを受け入れ、最善の一手で返した。

 けれど、それでも形勢逆転とまではいかない。


「やはり君は、ルールに縛られ過ぎてしまう癖があるようだな。よくないことだ。それでは、ルールが上手く機能しない、あるいは、存在すらしない状況下では、全力を発揮することは難しくなる。勘違いしてはいけないのは、ルールとは所詮、相手との相互の取り決めに過ぎない。相手との力関係の中でそれをどう上手く活用するか。それこそが重要なんだ。そして、それにも増して重要な事は、そうしたルールというものを根本から無視するような自分勝手な考え方、振る舞い方をする者を相手とするとき、自分だけがルールに縛られているようでは話にならない、ということだ」


 そう長々と自分のルール違反を正当化するような屁理屈をまくし立てながら、主はまたもデタラメな一手を指す。

 それは、まさしく致命打そのものだった。


「チェックメイトだ。さあ、どうする?」


 相変わらずの薄ら笑いを浮かべる主の顔を、私は無表情に見つめ返す。


「……どうもこうもありません。たったいま、ご自身でチェックメイトを宣言されたではありませんか」


「まだ手はあるさ。例えば……」


 そう言って主はその手でサッと盤面を払い、すべての駒を盤上から強制的に退場させた。ただひとつ、こちら側のキングだけを残して。


「これで君の勝ちだ、おめでとう」


 主は、もう限界だと言わんばかりに大笑いを始めた。

 過去の私はその姿を無表情に観察しながら、ようやくそれが冗談だということを理解した。


「付き合いきれませんよ、セラハ博士」





「悪かったね。でも、ダメなんだ」


 ようやく笑いが収まると、主は今度はそんな自分自身を嘲るような調子を醸し出し、続けた。


「好奇心を抱いてしまうとね、どうにも歯止めが利かなくなってしまう。そのせいで、この子はきっと私を恨むだろうな」


 そう言って、主は自分の膨らんだ腹部を、さも愛しげに優しく撫でた。


 月の泪の因子を埋め込まれ、産まれる前に遺伝子を、運命を、捻じ曲げられた子供。

 自身の学術的興味のために自分の子供を倫理にもとる実験の材料としながらも、その一方では、人並の親としての愛情を抱いている素振りもなんの臆面もなく見せる。

 複雑な精神構造というべきか、逆にあまりにも短絡的というべきか、それは今の私にもよくは分からない。

 当時の私にとってそれは尚更のことで、私は主の呟く言葉になんの反応もせず、ただじっと黙り続ける。


「……けれど、そうだとしても、私はこの子を全身全霊をかけて愛することを誓う。もちろん、この子の姉も。二人とも、私の大切な娘なのだから」


 誓う?

 当時はその言葉をなんとも思うことはなかったが、今の自分はそれに対して微かな興味を抱く。

 主は、それを何に誓ったのだろう? 神などではないことは確かだろうが。

 まあ、いずれにせよ、単なる一般的成句を口にしただけで、深い意味などはないのかもしれない。


「だから、君にはすまないが手を貸してほしい。私は、何一つ手放すつもりも、諦めるつもりもないのだから。月の泪の研究者としても、この子たちの母親としても。そして、その過程で私にもしものことがあったら、君が私の代わりに……」


 そこまで言いかけて止め、主は頭を横に軽く振ってから、いつものようにニヤニヤとした笑みを浮かべて、その言葉を撤回した。


「嘘だよ。ただの冗談だ」


 嘘だ。

 この人は、嘘をつくときは決まって、さも真剣ぶった真顔の表情で白々しく嘘をつく。

 さすがにその程度のことは、過去の私にも察しはついていた。





「おっと、もうこんな時間か。早く出なくては」


 主はすぐに調子を取り戻すと、時計を見ながらそんなことを呟いた。

 それに反応し、過去の私は即座に主の予定を検索する。一人で誰かと会う予定。それが誰かまでは記述なし。

 一応確認しておくべきだろうと考え、私は尋ねた。


「どちらへお出かけですか?」


「母に会ってくる。この子の事と、アレキサンドライトの製造進捗の報告やらで。夕方には戻るよ」


 ”母”。主が育った孤児院の名誉理事長。そして、エメラルド社の設立を主導したオーラーム財団の筆頭理事。

 アシェル・オーラーム。





 そこで、レディは記録の再生を終了した。

 今、この地にアシェル・オーラームを名乗る者が存在する。それは、記憶の中の名前、その人本人なのだろうか。

 彼女は当時すでに老齢に達していたはず。今はそれから二百年以上は経っている。

 順当に考えれば、存命のはずはない。けれど、不老不死となれば話は別だ。

 バカげた話ではあるが、実際のところ、前例はあるのだから可能性としては排除できない。


 不完全転化体。

 賢者の石、月の泪の微小細片たるプシュケーの起こした奇跡のひとつ。

 アレキサンドライトと月の泪の接続によって引き起こされたプシュケーの氾濫は、その激烈な生体変異反応の惹起によって多くの罪なき命を奪い、我が主もその内の一人として名を連ねることとなった。

 しかし、その一方で、主の夫からは生体変異のひとつの現れという形で、寿命というものを奪い去りもした。


 仮にアシェル・オーラームの身にも同じことが起きていたのなら、この地でこうもエメラルド社の機密がダダ漏れだったことにも説明がつく。

 まずはそれを確認する必要がある。そして、そうだとして、その不死の魔女は一体何を目論んで、この宝探しを裏から操っているというのか。


 レディは、決意を込めて扉を開けた。

 その先に、答えは待っている。





 レディの顔を見た瞬間、アシェル・オーラームの顔は複雑な表情の変遷を見せた。

 驚き、微かな喜び、好奇、そして、疑惑を経ての、虚無。


「その顔に思わず勘違いをしそうになってしまったけれど、あなた、セラハではないようね。そう、あなたは確か……」


「……お初にお目にかかります、アシェル・オーラーム様。カルサイトと申します」

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