02.


 おお、“トミコおばあちゃん”だ。


 小さい身体に、少し曲がった背中。しわくちゃの顔はお地蔵さんのように穏やかで、手に握る包丁は、不釣り合いなくらい大振り見える。そしてその見た目年齢からは想像できない手際の良さで、大量のたまねぎの下準備をしていた。


 俺が知る限り、この学校で俺以外の唯一の、純粋な“一般人”である。


「トミコおばあちゃーん。お手伝いの、高橋たかはしくんですよ~」

 椎名しいなさんが少し声を張って言うと、「んん?」とトミコおばあちゃんはにっこりほほえみを浮かべて、ゆっくり振り向いた。

「トミコおばあちゃん、ほら、高橋くん。今日、結喜ゆうきさんと、かなえさんがお休みでしょ? だから、お手伝いで来てもらったんですよ~」

「んん……?」と、にっこり笑ったまま、トミコおばあちゃんは俺と椎名さんの顔を交互に見ると、「あんれまぁ~」と回路が繋がったらしく、納得した様子で声を上げる。


「そうなの~、ありがとうねぇ。授業は平気かい?」

「えっ? あ……大丈夫、です」

「そう、そう。忙しかったら、無理しちゃいかんよ。よろしくねぇ」


 ごくごく普通の返答に、俺は一瞬、呆気にとられる。


 トミコおばあちゃんは名物ばあちゃんの割に、今日のような下拵えや、調理などの仕事が多く、表に出てくることはあまり無い。だが生徒たちからは人気があって、今日おばあちゃんに挨拶したよとか、今おばあちゃんがカウンターに立ってるからチャンスだよとか、嬉しそうなトーンでセリフが交わされるのを、ちょくちょく耳にしていた。


 俺も、たま~になら話したことがあって、でも、軽く挨拶するくらいだ。

 こんな学校に長年勤める“一般人”だなんて、一体どんな人なのかと思っていたのに。


「じゃあ、高橋くんこっち。まずはお皿洗いと、拭くの、お願いね」

 俺がトミコおばあちゃんと目を合わせている間に、椎名さんは話題をさらって案内を再開。シンクには既に汚れた食器が積まれ、スポンジと洗剤ボトルが並んでいた。


「返却口から食器を下げて、洗って、こっちに置く。ある程度溜まったらそこの布巾で拭いて、そっちに重ねる。手を拭くタオルは、そっちに。トイレはいつでも行っていいけど、一声かけて。できるだけ混んでるときは避けてね。もちろん、手洗いはしっかり」

「はあ、了解です」

「ここの食堂は、混むのはお昼だけかな。それ以外は、寮生がちょくちょく来続けるくらいだから、焦る必要はないからね」

「わ、わかりました」

「そこの一山が終わったら、下拵えも手伝ってもらいましょうか。高橋くん、自炊はする? ジャガイモとか、タマネギの処理とかする?」

「えーと、たまに。そんなしょっちゅうじゃないです」

「じゃ、今日で上達しましょ。お皿洗い終わったら、トミコおばあちゃんに声をかけて、お仕事もらって。わからないことはある?」

「は、はあ……あの。職員さん、これだけなんですか?」


 俺は改めて回りを見回す。いるのは椎名さんと竜宮寺りゅうぐうじさんと、トミコおばあちゃんだけ。普段、そんなにジロジロ厨房を見ないが、今日休んでいる分を引いても、いつもはもう少し人がいる気がする。


 すると椎名さんは、少し困った様子で笑みを作った。

「今日はパートの人もいないからね~、これだけなの」

「そ、そうなんですか」

「だから提供するメニューも減らしてるんだけど、さすがに三人じゃ心配で」

 そりゃそうだろう。この食堂は朝から夕方までやっていて、メニューもかなり充実している。これは学校側のブラックな意向ではなく、学生たちに少しでも望むものを食べさせてやりたいという職員側の申し出なのだと、とばりさんから聞いたことがあった。


 トミコおばあちゃん以外は〈主人公〉か元〈主人公〉だから、スペックは軒並み高いとはいえ、限度がある。食事を提供する相手も、エネルギーに飢えがちな〈主人公〉ばかりだし、そうでなくとも厄介な中高生どもなのだ。てかそこまで考えなくても、俺みたいなモブまで駆り出される状況だから、思った以上に切羽詰まってるのだろう。…………。


「……あの、頑張ります。できることはやるので」


 モブだからって遠慮しなくていいんで、の代わりに、そんなセリフを言うと、「あらま」と椎名さんがきょとんと俺のことを見た。不思議そうな表情で数秒。なんか、すごい恥ずかしいことを言ってしまったんじゃないか? と、俺が軽く後悔し始めたところで、「助かるわ」と微笑んだ。

「ありがとう。それじゃあ、わからないことがあったら私たちに聞いてね。遠慮することはないからね」

「は、はい」

「今日はよろしくね」

 椎名さんはウフフと笑って、その場を立ち去る。

 よく見ると、使い込まれた厨房の壁には、あちこちに小さな貼り紙があって、それぞれ洗い物や盛り付けの手順が事細かく記されている。調味料や付け合わせの食材には、ちゃんと名前のラベルが貼られている。最初は緊張したけれど、丁寧に整えられた厨房や、おばちゃんたちの柔らかい雰囲気を見ていたら、何とかなりそうな気がしてきた。


 俺は汚れた皿を手に取ると、スポンジでがさがさ洗い始めた。


 まともに立ったことのある台所なんて、実家で時々と、一人暮らしを始めて自炊するようになってからだ。他人が使う台所に立つのは、調理実習を除いたらほとんど初めてのような気がする。

「…………」

 黙々と、手に取った皿をスポンジで磨いていく。背後ではおばちゃんたちが連絡を交わしながら、手際よく食事を提供していく。まぁ俺はここで食器洗いをしていればいいんだから、楽な話である。洗い物だってそんなに嫌いじゃない。時々「ごちそうさま」と声が聞こえてくる……。


「高橋くん、こっちの鍋もちょっとお願い~」

「あ、はい」

「あら、早いわねぇ。そんなに頑張らなくていいわよ」

「は、はあ。わかりました」

「高橋ィ、それは後でまとめてやる方がいいから、こっちの小鉢先にやりな」

「あ、そっちっすね。了解です」


 …………。

 …………。

 …………。

 …………。

 ……平和だ…………!


 なんか、ちょっと愕然とした。まさか校内にこんな平和な場所があると思わなかった。おばちゃんたちも特に変な目で見てこないし、バイトの内容も心配するほど過酷じゃなかったし。授業のことだけ気がかりだが、みなみ先生が補講申請をしてくれるというから、そんなに心配することじゃないだろう。

 そして、なんだ、普通に仕事を評価されてる。思えば、長らく「普通のこと」を「普通の人」の前ですることが無かったから、ここ一年ちょっと変な生活をしていた俺からすると、なんか、逆にショッキングな出来事だった。こんな世界あったっけか。


 いや。これが、普通の世界なのか。


「…………」

 俺、どうしてこんな学校にいるんだろう。

 皿をこする。洗う。流す。

 普通に仕事をする。それを、普通に評価される。

 手応えがある。触れれば、触れられる。

「…………」


 この学校にいると、何を一生懸命やっても、だめで、届かなくて、努力をしてもまともに実らない。バカらしさばかり増していく。クラスのやつらを見下そうとしても、俺の立場はあまりに底辺で。劣等感ばかりを、皿みたいに積んで、積んで、積んで……それでも、ここにいるのは。


「…………あ」

 手元から、皿が無くなった。

「ええっと……」

 次の食器が来ない。


 カウンター越しにホールを見ると、生徒はだいぶ減っていた。朝のピークを過ぎたのか。今から食べようとする人影もちらほら見えるが、大した洗い物の量にはならなそうだ。

「高橋~」と、竜宮寺さんが呼んだ。「ちょお、テーブルの掃除やって~。そこにある布巾で濡れ拭きして、ゴミは捨てる。忘れ物があったら回収」

「あ、はい」

「その後調味料の補充もやってもらおか。あ、下拵えの方がええかな」


 そんな独り言を聞きながら、俺は濡れ拭きを片手にアリーナへ出る。それぞれ思い思いの場所で食べる生徒たちは、一方的に顔を見知っている人物も多かった。如月きさらぎのように知り合いが多いわけじゃないが、顔を見ればなんとなく学年や所属がわかるくらいには、俺もこの学校の生徒として真っ当にやっている。

 ……で、黙々と濡れ拭きをしていると。


「アッ、タカハシダ! タカハシタカハシ――モニョッ」


 聞き覚えのある声に振り向くと、予想通りの雁室かりむろが、相変わらず不良っぽい見た目で、緑色の人魂を握るように押さえつけ、気まずそうにそっぽを向いていた。…………。


「……何してんだ?」

「いやっ、そりゃこっちのセリフだ! なんだそのエプロン姿!!」


 言われてみればそうだった。エプロン姿にバンダナを巻いているから、これけっこう、知り合いが来たら恥ずかしいやつじゃないか?

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