第七話 本物のヒーローを教えてみろよ!(港町編)
01.
マコ~、と言いながら。マコ~、マコ~、と。
理由は今もよくわからない。一回抱きつくと、蹴っても暴れてもしばらく離さないので、俺は二、三分ほどの拘束を覚悟しなければならない。あの人はたぶん、同年代と比べても背は高い方で、飯もよく食って、運動もできて、体もほどよい中肉だったけど、妙に儚い印象があった。
そこにしっかりと立っているはずなのに、ふとした瞬間に、綿毛のように飛んでいってしまいそうな。
そんな帷さんが、俺と久しぶりに顔を合わせると、宿り木を見つけたかのように抱きついてくる。マコ~、マコ~。初めて会った日から、あの人はべったべったとくっついてきた。ウザい人だなあと思っていたけれど、「あの子人見知りなのに、マコのことは大好きなのよね~」と母さんは呟いていた。
家族になりたかったんだ。
帷さんはそう言った。血の繋がりのない俺と、ちゃんと家族になりたかったのだと。本当のことを言うと、自分が義弟に嫌われることで、俺と母さん……つまり、帷さんの実の母親との間に、軋轢ができることを恐れたらしい。そして安直なあの人は、俺に愛情という賄賂を差し出してきた。
賄賂だったけれど、中身は確かに愛情だった。
そして最後は賄賂でもなくなった。あの人の純粋な愛情が、やがて彼の本質になっていた。俺はいつもそれを蹴飛ばし、殴り飛ばし、罵倒して、壊すばかりだった。こちらの愚かさを映し出すほど磨かれた、曇りのない彼の人格。彼と一緒にいるのは嬉しくて、楽しくて、光栄なことで、そして惨めで。
だけど、幸福だったんだろう。
俺が嫌っていたのは俺自身でしかなくて、彼と一緒にいて俺が憎いと思う相手は、いつも自分自身だった。それを、自分の姿さえ見えなければそれでいいと、俺は自分を磨かずに、帷さんという鏡に八つ当たりする方に、時間を費やした。
幸福を、幸福じゃなくしてしまったのは自分だ。
俺が中三になってもあの人は抱きついてきた。持ち前の腕力でぎゅーっと締め付けてくる。こんな歳にもなってマジでやめろと思う。けど俺も、年齢に伴って腕力も体力もついてきて、多分本気で嫌がれば、あの人の腕を振り払えるくらいの力は、身につけていて。
やめろと言いながら、振り払えなかった。
もういいかな、と思っていた。彼が家に来て、四年目の終わりのことだった。長かったような、短かったような。彼は一度も俺に怒ったことはなくて、俺が望んだときに傍にいてくれることも少なかったけれど、めいっぱいの時間を使って会いに来てくれた。
俺も年をとるにつれ、それなりに多くの人と出会い、その中で帷さんがどういう人間なのか、気付き始めていた。そこそこに小遣いと行動範囲が増えて、もう来年は高校生になるな、と思い始めた頃、ようやく、たまには自分で帷さんに会いに行こうか、と、自分から足を動かすことを考え始めたのだ。
その矢先に、彼は亡くなった。
あまりにも唐突に。
そのときの喪失感が忘れられない。いいや、今でもべったりと体に染みついている。俺は、理由はわからないけれど、あの人にずっと必要とされてて、だけど俺を必要としてくれるあの人がいなくなった瞬間、何者でもなくなってしまったような気がして。
あの人はもういない。学校に来いよ、お前がいないと寂しいよ、と言っていた人はもういない。マコ~、俺はダメな奴だぁああ~、と、帰省する度に嘆くこともない。声も体温も、きたない文字も覚えているのに、彼はもうどこにもいない。
違う。またこうして、自分のことばっかりだ。大事なのはそんなことじゃない。
俺は最後まであの人を、“兄さん”と呼んでやれなかったんだ。
日付が変わって、土曜日。
早朝から目を覚まして、さくさくと準備を進める。必要な持ち物は最低限、所持金も交通費と簡単な食事代くらいでいい。最悪、歩いてでも帰ってこられるし。服装は身軽に、気温相応よりちょっと薄着がベストだ。そして脱ぎやすいものを。洒落た靴なんて履かない。スニーカーだ、スニーカー。いざというときに走れなくてどうする。スマホの画面を確認すると、母からメッセージが入っていたので返信する。最近スマホのカバーを頑丈なのに買い換えた。が、いくら強くしたって足りないくらいなんだし、今度
家を出る。戸締まりをする。
空を見上げれば、まさしく「雲一つ無い晴天」だ。これが
俺は最寄りのバス停に向かう。途中、「今バス乗った」と
「
あまりひと気の無い街道のバス停では、以前一緒に買いに行った私服一式を纏った
「おはよう」
「はよーっす! ここでいいんだよな?」
「ああ、合ってる」
バス停を指さす夜崎に頷いてみせる。
比較的海に近い町なので、ここからバスに乗れば一本で、目的地の海辺まで着く。今回の呼びかけに具体的な集合時間は無いものの、敵が出現する時間や、防衛するべき範囲などはある程度赤坂から指定されていて、俺たちもそれに合わせて移動する算段だった。
「おっバス来た。あれか?」
「あ……いや、違うな。あれは図書館行きだ」
「えー、難しいな。じゃあ、あれか?」
「ああ、あっちだな」
「本当だ! 如月乗ってる!」
「えっ、マジで?」
俺たちに気付いたバスが停車し、扉が開くと、降車口付近に私服姿の如月が立っていた。
「二人とも、おはよー」
「はよーっす!」
「はよっす」
三人で軽く挨拶を交わしながら、ぽつりぽつりとしか人がいないバスに乗り込む。一番後ろの五人席が空いていたから、意気揚々とそこへ座りに。
「夜崎、大丈夫? 前に電車に乗った時みたいに酔うんじゃない?」
「あっ、そうだ。やばいかも」
「窓際行けよ。外眺めてたら、少しは気ぃ紛れるだろうから」
そんな感じでわちゃわちゃしていると、「発車します」の合図と共にバスが走り出し、目的である海岸へ向かう。最寄り駅に繋がる線路を越え、
「ずーっと前の出動で行ったくらいかなぁ」
「そうか、如月はそれで行ったりするのか」
「夜崎はー? あそこの浜、行ったことある?」
「多分無いかなぁ」と夜崎は言う。「小さいときに行ったかもだけど」
夜崎がこういう質問をされたときに「多分」を多用するのは、幼少期の記憶が曖昧だかららしい。養父の親父さん――
「あそこまで行くと俺らの管轄外なんだよな~」
「ああ、〈
「そうそう。〈悪鬼〉って百花狙ってくるからさ、屋敷の周りにしか出ないんだよ」
「へえ……ところ構わず出るのも面倒だけど、地元を離れられないのも大変だね」
如月の言った“ところ構わず”というのは、自分の経験談だろう。旅行先にも出るというのだから大変な話だ。現役を引退した今では、そういうことも滅多に無いようだが。
昨日も“討伐”のシフトに出ていたらしい夜崎は、子供みたいに眠りについた。俺と如月は情報漏洩にあたらない程度に、学校やら行事やらについて雑談をした。
「体育祭くらいできたらいいんだけどね」と彼女は言った。「ちょっとくらいさ、高校生っぽいこと、したいよね~。まぁ、そういうのやらなくてへっちゃらな人たちが、ああいう学校を選んだんだろうけどさ」
そんな話をしているうちに、バスが終点の港町に近付いているとアナウンスが入る。俺は夜崎をゆさゆさゆすって起こす。「もう、よだれついてるよ」と如月が姉のように言う。夜崎はぴょんと起きてから、目をごしごしこすると、
「なんか、変な場所いた気がする。夢ってやつかな」
そう言いながら、席を立った。
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