10.


 あくまで“蜘蛛くものようなシルエットの怪物”。運動場の地面を突く何本もの長い脚と、その中心に大きく歪な黒い塊。蜘蛛で言えば顔にあたる部分には、巨大な銀色の仮面がついていた。赤や青は見たことがあるが、銀は初めて見る。


「〈破銀はがね〉……!」


「ハガネ?」

 隣の百花ももかが呟いた。「〈悪鬼あっき〉か?」と確認すると、言葉無く頷く。

〈破銀〉は随分と巨大だった。豪邸とまでは言わなくても、別荘くらいのサイズはありそうだ。遠くにいるからギリギリ見れるが、目の前にいたら泣いて逃げる。

 すると夜崎よざきが俺たちの方を振り返って、

「星見てて! こっち片付けとくからさ~!」

「集中できるか!!」

 反射的にツッコミを入れる。星を見せようだなんて、随分ロマンチックなことを言うじゃねぇかと感心したが、なんだろう。こんな近くでドンパチしながら、俺たち一般人がまったり星見れると思ってたのか?

 などと内心ツッコんでいる間に戦闘を始めたらしく、最初は困惑気味だった如月きさらぎもきっちり、「私はこっちの脚やるから!」などと参戦している。……結局、できるやつってそうなんだよな。文句言わずに行動するやつが勝ち組なんだよな……。

 ひとまず安全は確保できたので、欄干に寄り掛かってぼんやり星と戦闘を眺めていると、まだ距離感の慣れない百花が隣に立った。それで、戦う夜崎達を見て、


れい様は……皆様とご一緒のときは、いつもあんなご様子なんですか?」


「え?」

 斜め上からの質問。

「あんなって、どんな?」

「ええっと」

 百花も具体的には考えていなかったらしい。小さな顎に細い指を当てて、「その……」と。

「屋敷の印象だと、こういうことは……いえ、奔放な方とは伺っているんですけれど、一族の基本理念に忠実で、あまり危険を冒さないと、思い込んでいたので」

「……いや、あいつけっこうムチャクチャだろ」

 とりあえず、“忠実”とかいう言葉とは無縁だ。忘れ物とかしょっちゅうするし、授業中の受け答えとかも「え~っと~」みたいな言葉遣いでふわふわしてるし。あと、朝っぱらから龍呼び出すし、家の塀とか屋根とか伝って登下校するし。

 ただ、


「まぁ、いいやつだよ。いつも助けてくれるし」


 これも、確かだ。

 百花の話の意図とは少し食い違ったのかもしれない。「そうなんですね」と、どこか飲み込み切れていないような反応。それは、今日、既に何度も感じた違和感でもあった。

「そっちこそ、夜崎のこと、なんかあんまり知らないふうじゃないか? よそよそしいっていうか。勘違いだったら悪いんだけど」

 予防線を張って尋ねると、「あ、そ、その通りです」と、百花も少し気まずそうに、だがなんだかホッとした様子で肯定された。


「零様と直接お話ししたのは、昨晩が初めてだったので……」

「へー……は? 昨晩!?」


 思わず上げた大声が、運動場から聞こえる、チュドーン、バキーン、みたいな戦闘音に掻き消される。百花が、少し恥ずかしそうに顔を俯けて、「そうなんです」と返事をするのがなんとか聞こえた。

「その時は、とても落ち着いた方だと思って」

「ほぼ初対面の女子をさらってきたのかよ……」

 てっきり旧知の仲かと思っていたが、夕方に見た二人の気まずさには納得できた。そこは納得できたんだが、これはむしろ、夜崎の非常識っぷりが加速している気がする。

 その証拠に、百花の顔が明らかに強張っていた。い、いかん。これは、夜崎の名誉を守る方向で進めた方がいい。

「あの、多分、百花に対して変な気があったってわけじゃなくて。本気で心配になっただけなんだよ。あいつ、根っこ善良だし、異性に興味あるとか聞いたことないし」

「あっ。わ、わかりますよ」

 まくし立てる俺に、気を使った様子で百花が首を縦に振った。運動場の方から風が吹いて、彼女の長い髪を乱す。それを耳にかけながら、空を見上げていた。

 空を星が横切った。


「……わたくしも、儀式の類い以外で、夜間に外出するのは久しぶりだったので……忘れてたんです。夜の匂いとか、風の涼しさとか湿度とか……全部どうでもいいんです。どうでもいいんですけど、零様はそういうのを、蔑ろにしないでくださったんですよね」

「……そう。そう」


 わかるよ、と言いたかった。

 けど、上手く言葉になってくれない。

 なんでだ。

「っていうか」と話題を変える。「初対面なんだな。家、近いかと思ったけど」

「それは――」

 百花が言いかけたとき、こちらに何か飛んでくる気配がした。

 とっさに百花の身体を掴んで、「キャッ」と叫び声が上がるのも構わず、その場に伏せさせる。頭上を大きな塊が勢いよく通過、後ろにあった校舎に、噛み終わったガムのように、ベン! と貼り付く。遠目に見ると白っぽく、蜘蛛の糸の塊に見えた。

「おい、こっち飛んできたんだが!!」

 運動場にクレームを入れると「ごめん!」と如月から返事があった。

 いつの間にか、蜘蛛の脚は半分ほど切り落とされていた。少なくなった脚で巨大な身体をなんとか支えながら、無様に倒れそうになっている。如月たちが優勢のようだ。

 ただ、その横で夜崎が膝に手をついていた。

 疲弊しているように見える。

 蜘蛛が鋭い脚を持ち上げて、夜崎を狙うのがわかった。俺や百花が声を出す前に気付いた如月が、脚の関節に蹴り攻撃。蜘蛛の脚をバキンと折って、「ちょっと大丈夫!?」と夜崎に駆け寄る。

 刹那、機動力を失った胴体と頭部が二人の方を向いた。仮面の下に大きな虫の顎のようなものが蠢いていて、口から何かを――普通の蜘蛛なら糸は尻から出すはずだが――吐き出そうとしているのが見えた。


「如月! 後ろ!!」

「っ!!」


 俺が怒鳴ると、如月がパッと動いた。その場から軽やかにジャンプして〈悪鬼〉の視線を引くと、残っている蜘蛛の脚を踏み台にして、頭部に強烈なドロップキック。既にいくらかダメージが入っていたらしい仮面に、キックの衝撃でヒビが入り、そのまま慣性の法則で、全身がグシャシャシャと地面をスライディングしていく。


 だが、胴体がひとしきり地面を滑って停止したときだった。

 周囲に散らばっていた脚が動いた。

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