03.


「ま……まさか」

 立ち止まっている間にも揺れは大きくなり、ついに立てなくなってドッと地面に尻餅をつく。普通に痛かったが、次の瞬間――前方のアスファルトが横一文字に、ゴッ! と割れたのを見て、ケツの痛みなど吹き飛んでしまった。


 地割れの隙間から、何かが飛び出した。


 巨大な、熊か、イノシシでも、地中から打ち上げられたみたいだった。目にも止まらぬ速さだったが、黒い大きな影だけで何かがわかった。俺はとっさに立ち上がると、揺れが止まった地面を蹴って、学校に向かって走り出していた。


 マズい、マズい、マズい!!


 この周辺地域ではオーソドックスな魔物で、いつもなら夜崎よざきが相手をしているザコ敵。ただザコ敵というのはあくまでも〈主人公〉にとって、という話であって、間違っても俺のような一般人が相手をしていいわけなくて――


 ドゴーンッ!!


「っ……!」

 先ほど地割れから飛び出した、熊ほどのサイズの化け物が、逃げ出そうとした俺の数メートル先で、地面にヒビを入れながら着地。見た目は例えるなら、黒いカエルのようなシルエットで、立派なもものついた尻をこちらに向けていたが、よちよちと不器用に振り返ると、右手には錆びた斧のような武器。カエルなら顔があるはずの位置には、禍々しい模様が入った、小さな緑の仮面がついていた。フーッフーッ、と、身体のどこについているのかわからない器官で荒い鼻息を鳴らしながら、俺を見ている。あと、ちょっと生ゴミみたいな臭いがする。


 この町にはびこる魔物の一種。〈主人公〉たちの、敵。

悪鬼あっき〉と呼ばれる鬼の魔物だ。


 その中でも跳躍に特化したタイプ。夜崎いわく、「俺らの霊力? 魂? に引き寄せられて来ちゃうんだよね~」らしいので、あいつと一緒にいればエンカウントには事欠かない、見慣れた敵だ。ただ……。

「なんで、こんな、朝から」

〈悪鬼〉は夜にだけ出てくるのが特徴だ。

 午前には初めて見る。


 ともかく、こいつは夜崎の領分だ。連絡して追い払ってもらわないと。あいつはスマホを持ってないけど、多分、如月きさらぎに電話でもすれば大丈夫……と、ポケットからスマホを取り出したところで、手が止まった。


 ――連絡すんのか? あんな醜態さらしておいて?


 その、わずかな躊躇いがよくなかった。

 カエルがぐぐっと腰を入れると、太い足をバネにして、俺に向かって跳んできた。縦方向じゃなくて、水平方向でほぼ突進。ドッジボールの要領でギリギリ避けたのはいいものの、汗をかいた手から、スマートフォンがスポッと滑り落ちた。

「あっ!!」

 あろうことか、スマホはすぐ横を通り過ぎるカエルの身体にぶつかり、ポーンと勢いよく飛ばされていく。遠くから、バキッ! と嫌な音がした。

「ちょ……マジかよ!」

 なんだこれ。なんだこれ。悪い奇跡ばかり積み重なった状況に、視界がぐるぐる回ってきた。内心ではザコとか言ったくせに、膝はガクガク笑っていた。


 逃げないと。


 この状況はヤバい。足でドコドコ移動される分には余裕で逃げられるが、さっきみたいに真っ直ぐ俺めがけて跳んでこられると、あっという間に追いつかれる。あまり頭は良くないようで、命中精度は低いものの、万が一にもあの巨体がぶつかったりしたら……。

「…………くそ……!」

 最悪だった。俺、マジでここで死ぬかも。

 だけど、焦りと同時に沸いたのは怒りだった。はあ? 教室でキレたモブ男子は、友人と口論になって学校を飛び出し、その後で変死体となって発見されて……ってか? 俺みたいな“モブ”の死は、誰かの〈物語〉を進めるちっぽけな歯車にされる。この場合は、多分……夜崎のを。俺が死んだところで、あいつが何を思うかは……わからないけれど。

 こうして俺は“モブ”らしく、他人の〈物語〉の舞台装置にしかなれないのか? 自分の人生は散らすだけ散らして、結局、如月や夜崎たちの踏み台に……いや、というか。


 俺は最期まで、自分のことしか考えられないのか?


 蛇行する思考が、ようやく自分を客観視するところまでたどり着いた。そりゃ、モブにもなるわ。こんなに自己中心的な人間が、なんで〈主人公〉になれるかもなどと、淡い期待を抱いたのだろう。死の間際まで自分の不幸ばかり呪って、他人の才能を妬み嫉み、当たり散らして謝罪もせず、何かを諦めたフリをして、自分は大衆であるべきだなどと。


 俺は、あいつらに謝ってすらいないのに。


 少し離れた場所に着地した〈悪鬼〉は、後ろ足で不器用に方向転換をしている。俺の逃げる選択肢は、二つだ。〈悪鬼〉に背を向けて町の方に逃げ出すか、校舎に向かって坂を駆け上がるか。どっちも地獄だ。体力にもキリがあるし、逃げられる気はしていない。


 だけど。

 同じ地獄を選ぶなら。

 選べるなら。


「――――っ!」

 邪魔な通学鞄を投げ捨てると、アスファルトを蹴って、坂を駆け上がっていた。

〈悪鬼〉はザコが悪足掻きを始めたことを察して、俺の方を向くと太い足で屈伸、ドンッ! と大砲の弾みたいに突っ込んでくる。正面で向き合ってる分にはギリギリ避けられる。背を向けて走り出したら、あとは生死の宝くじだ。


 俺に当たればあいつの勝ち。

 学校までたどり着けば、俺の勝ち。


「ザコ同士で遊ぼうじゃねーか! バーカバーカ!!」

 なんかもう自暴自棄だった。口調はテンション高いが、実際顔はひきつっているし、内心泣き喚いていた。坂道辛い! 疲れた! 死ぬ! 死ぬ! 死ぬ!


 俺、多分ここで死ぬわ!


 だけどそう思った瞬間に、さっきまで大爆笑していた膝は、ようやく持ち主の言うことを聞き入れてくれた。身体が不思議と軽くなっていた。全身が、そうだな、こりゃ死ぬな、って諦めて開き直ったみたいだった。それで、こう聞かれているようでもあった。最期にどこに行きたい?


 最期に。

 最期に……俺なんぞにかまってくれた、二人のクラスメイトのところに。


 拗ねてすまん、と謝りたかった。あいつらの申し訳なさそうな顔がちらつく。二人は、あの学校の中で飛び抜けて良いやつだ。だから俺が文句を言うとして、その相手は絶対にお前らじゃないし、むしろ俺みたいのにかまわせてすまなかった、と言いたかった。モブクラスメイトのお守りをするのは面倒だったと思う。


 ドゴーン! と背後に疑似隕石が落下する音が聞こえた。

「ひっ!?」

 思わず振り返ると、ほぼ目の前にカエルの〈悪鬼〉の仮面があった。さっきまで真っ直ぐこっちに突進してきていたのに、上から跳んでくる方に変えたらしい。なんで頭悪いくせに、戦略変えてくるんだよ!

 やばい、マジで泣きそう。

 慌てて地面を蹴って加速する。十メートル、二十メートル……必死に足を運ぶが、この坂道は足に堪える。ドゴーン、ドゴーン、と落下する〈悪鬼〉も、轟音を鳴らす度に俺のメンタルを確実に削っていて、目の前すれすれに落ちた瞬間は、腰が抜けるかと思った。


 腰は抜けなかったが、体力はもう限界だった。


〈悪鬼〉からさらに十数メートル逃げたところで、膝に手をついた。普段は歩くだけの坂道が、走るとこんなに体力を削いでくるのか。年始の駅伝ヤベぇ。

 そんな、暢気なことを考えていたとき。


 スローモーション。俺の頭上から足下に巨大な影が落ちた瞬間、時間がゆっくりと流れ始めた。徐々に大きくなる影と、巨大なカタマリが落下してくる風切り音。自分の心臓の音。呼吸。全てがゆっくりと動き、ろくに反応もできないのに、目と耳だけは、残酷なほど鮮明に、現実をとらえていて。

 死ぬ。

 負けだ。どうしよう、こんなんマジでモブだろ。こんなところに推薦しやがった兄貴の顔が思い浮かんだ。地獄で会ったら一発殴ってやる。俺は所詮、こんなところで小さく死んでいくだけのモブだったんだよ。


 ――ごめん!


 宛先のわからない謝罪を内心で叫びながら、頭上に〈悪鬼〉の気配を感じ取る。これでもうおしまいだ。思考を一色に塗りつぶす絶望に、奇妙な安心感すら覚えた――


 刹那。

 ヒュッ、と、こちらへ迫ってくる風切り音が聞こえた。聞き間違いかと勘違いするほど微かで繊細で、鋭い気配。その直後だった。

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