8
久しぶりに家で夕飯を食べた。妻がおれの好物ランキング第二位のハヤシライスを作ってくれた。ありがたい。当然、グリーンピース抜き。最高だ。
一週間ぶりの一家団欒。妻はおれに若干不満があるようで、チワワは不服そうな顔をしていた。部屋ではトニー・コジネク『バッド・ガール・ソングス』がかすかに流れている。おれの趣味ではない。彼女の好みだ。
とりあえず、なにか喋ってみることにした。
「一月にさぁ、ディズニーシーに行かね? レイジングスピリッツに乗ろうぜ」
七月にできたばかりのアトラクションの名前を口にすることで、おれはごまかそうとした。テーブルの下では、チワワが低く唸っている。おれが足をぶらぶらさせていることに文句を言っているのだろう。
「まだ乗ってないもんね」
テーブルの向かいに座っているリカは、こちらを見つめながら返事した。下まつ毛がくっきり見える。だから目が大きく見えるのかなと、くだらないことに気づく。
「それはいいんだけど、マナブはなんで遅くなるときは連絡してくれないの?」
ほら、来やがった。
「今日は連絡したじゃん」言い訳する。
リカはおれを睨む。ベティ・ブープがプリントされた赤いワンピースを着たリカはおれを追い込んでくる。チワワもおれの足に吠えだす。
「チャーハン!」
リカは犬を叱る。黒いチワワは黙るかわりに、おれの足に噛み付いてきた。
「いてー!」おれは叫んだ。
「うるさい! 大げさに騒ぎすぎ!」
そのタイミングで、おれの携帯が震えだした。古い歌の低いハミングみたいに、おれのポケットの中で唸っている。
奥さんとチワワの追及から逃れるべく、おれは電話に手を伸ばした。
壁に目をやる。時計は二十一時半を指していた。
壁に貼られたポスターでは、赤髪ボブの女が微笑んでいる。つられておれも精一杯微笑んでみた。だが、うまく笑えなかった。なぜなら、携帯の画面にはミヤケナナの名前が表示されていたからだ。悪い予感しかない。
「ナナちゃん、どうした?」
リカの顔を見ると、呆然としていた。
わりぃ。浮気とかじゃないんだよ。こいつは名前がかわいいだけなんだ。
電話の向こう。返事はない。ただ、後ろでなんか唸り声が聞こえた。怒鳴り声とかではない。なにかを耐えているような声。
「ナナちゃん、大丈夫か?」もう一度訊ねた。
リカの目がますます冷たくなる。頼むから、目をそんなに細めるなよ。
「知らない人が……」
ミヤケナナの声がひきつっている。今にも千切れてしまいそうな声をしている。
「勝手に入ってきて……」
また、例のうめき声が聞こえる。ゾンビ映画で耳にするような声が、電話越しに這い上がってきた。
「勝手に入ってきて、手を切り出して……」
手? 手首じゃないのか? なんだ、それ?
「今から行く。とにかく、そこにいちゃダメだ。コンビニにでも逃げろ」
家でふたりっきりという状況はまずい。肝心なことを言っておかねば。
「捕まりそうになったら、叫べ」
ガサガサという音がする。ミヤケナナは逃げ始めたのだろうか。
一瞬音が途切れた。
ざわついている。
悲鳴が聞こえる。
走りながら叫んでいるのか、音が縦に揺れている。唐突に通話が切れる。
「リカ、頼みがある」おれはライダースをひっつかむ。
「明日は、今日の残りでオムハヤシを作ってくれ」
おれが一番好きな料理はオムハヤシだ。それも、リカの顔を見ながら食べるやつな。ちょっと得意げなリカを見るのも好きなんだ。
玄関。しゃがむ。パラディウムのパンパハイを履く。紐を結び直す。黒のハイカットに水色の紐。夜をぶっとばすには最適な靴だ。
「ほんと、女の子に甘いよね。かっこつけようとするよね」
おれの背中に、リカが嫌味をぶつけてくる。
おれは立ち上がると、リカに向き合う。背が低い彼女の頭に手を置いて撫でる。
「雑!」リカが怒る。
「わかってないな。おれはいつだってリカに誇れるよう、かっこつけているだけだ」
リカは何も言い返してこない。心底呆れているのかもしれない。目を細めて、おれを見つめていた。
五キロ近くあるずんぐりしたチワワが、玄関までやってくる。おれに何かを訴えるように吠えてくる。
ただ、今日のおれには、チップとデールがついていた。ロングTシャツには、フェドーラ帽をかぶったシマリスの名コンビがプリントされている。二匹は一本のマイクを分け合って歌っている。
おい、チャーハン、知ってるか? おれもこいつらも吠えたり、唸ったりはできないが、歌で心を溶かすことはできるんだぜ。リカに聞いてみるといい。おれはかっこつけるだけじゃなくて、かっこいいんだ。
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