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 途中で客に二度ほど遮られたが、ミヤケナナは静かに少しずつ、一歩一歩確かめるように説明を続けた。スコップで穴を掘るように、少しずつしか先に進まなかった。

 ミヤケナナの話を聞きながら、おれは何度も「ミヤケナナ」という言葉を黙って反芻した。最高にかわいい名前だが、顔の見えない名前でもあった。


 端的に言えば、十二楽棒でアプリコットとして働くミヤケナナはストーカー被害に遭っていた。お店での勤務後、毎回誰かが家までついてくるという。客かどうかはわからないそうだ。

「パンツを下ろしている姿が気持ち悪くて。顔は意識しないようにしてるんです」

 まあ、キモいだろう。肝を据えて、必死にふんばっても、見ず知らずの男にあそこを当然のように見せられるのは普通に嫌だろう。

「送迎の車とかないの?」

「うちはないんですよ」

 まあ、大体のオナクラは、送迎なんてないだろう。二十四時近くまでシフトで入っている女の子なら、話は別だが。オナクラがソフトな風俗だから、という話ではない。歌舞伎町にある人妻ヘルスにしても、猫耳ピンサロにしても、同じだ。女の子はみんな自分の脚で新宿駅か西武新宿駅まで帰っていく。

「週にどれぐらい、シフトに入ってんの?」

「週四で入ってます。昼は大学に通っているんで、平日の講義後に入ってます。十八時から二十一時まで」

 家庭の事情だろうなと、なんとなく察しがついた。

 遊び歩くこともなく、大学から直行。飲み歩くこともなく、自宅へ直帰。必死に金を貯めている感じが、会話の端々から伝わってきた。家庭教師なんて今どき流行らないし、塾講バイトなんてパイの奪い合いが激しくて、まず、ありつけない。コンビニバイトは時給も低い割に、やることは多い。飲食店なんて、学業が疎かになるだけ。効率よく稼げるから、ミヤケナナはオナクラで働いているのだろう。

「二十歳?」なんとなく、そんな気がした。

「十九です」

 ああ、大学一年目で、いろんなバイトを試した結果、オナクラに流れ着いちゃったわけか。ミヤケナナは二〇〇五年に翻弄されていた。遊びたいわけではなく、生き残るため。翻弄され漂流しているワン・オブ・ゼム。こういう時代だからといって、看過してよいものではない。


 正直に言うと、おれは断りたかった。

 ミヤケナナという名前が最高に好みだったからだ。逆に、ミヤケナナという名前ではなく、ヤマザキルミみたい名前だったら、おれはスムーズに引き受けただろう。情が移る可能性がぐっと下がるからだ。

「おれを頼るってことは、警察には相談したくないってことだよな」

 ミヤケナナは頷いた。

 警察はいまだにストーカー被害に対応できていない。相変わらず、事件になってからでないと動けないでいる。ネット上での誹謗中傷もそうだろ? 明確なルールが定められていないから、まともに対処できないのだ。相談しても無駄と考えるのが自然だろう。

 そもそも、オナクラで働いていることを話したくもないだろう。世間は偏見に満ちている――という言い回しも十分偏見に満ちているが、オナクラで働いているというだけでミヤケナナは色眼鏡で見られるはずだ。隙が多いとか、遊ぶ金欲しさとか。当然の報いだと思う野郎もいるだろう。そういう奴らはわかっちゃいない。遊ぶ金欲しさに風俗で働く奴なんて、半分もいない。オナクラなんか、もっと割合は下がるはずだ。


 ミヤケナナにもっと踏み込むべきか、おれは悩んでいた。

 コーヒーカップに手を伸ばす。いつ淹れたのかも思い出せない。冷めているし、苦い。念のいったエグさだ。

「うちら、仕事を受けるときは、金とってるよ。そこは聞いてる?」

 ヒラタナオが勝手に話を進めた。しかも、「うちら」とか言ってやがる。チーム気取り。

 ミヤケナナは頷いた。

「分割でいいし、三年ぐらいかけてもいいから、そこだけは頼むよ」

 スカジャンを着た赤髪は、そこでおれの頭を小突く。商談成立の合図だろうか。

「わかりました。お願いします」

 ミヤケナナが頭を深く下げた。途端にアーモンドとヴァニラの香りが漂ってくる。ニナ・リッチのレベル・ドゥ・リッチ2だろう。

 おれはついいらないことを聞いてしまう。

「レベル・ドゥ・リッチ2だよね。高校生っぽくない? 同じ系統のヒプノティック・プワゾンは試してみた? もっと甘いよ?」

「レベル・ドゥ・リッチ2の方が安いんで」

 ミヤケナナはむかつくほど慎ましかった。

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