8、
――いい思い出づくりができてよかったね!
あの子の言葉。
――あれを一夏の思い出になんかさせないよ。
理菜の言葉。
現実的に考えれば、実現可能性が高いのは前者の方で、だけど私はどうしようもなく理菜に期待してしまっていた。
『人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩だ』
月に降り立った宇宙飛行士は、かつてそう言ったらしい。
今回の映画は、周りから見れば小さな一歩かもしれない。でも、私にとってあの映画は、果てしなく大きな意味を持つ一歩だった。それこそ、人生を左右してしまったほどの。
……みんなにとっては、どうなのかはわからないけれど。
でも、この時できた繋がりが大事なものなのは間違いなくて、――そして今日、私たちの旅路がひとつ区切りを迎える。
受験生、冬。十二月。凍てつくような寒さの中で、私は映画甲子園の授賞式に向かっている。
応募した高校はすべて授賞式に参加できて、結果は会場で発表される。オーディエンスも来るらしい。中には映像科の講師や映画監督といったプロも来るという噂もある。
映画『くらげと花火』の、正真正銘の終幕。
これが終われば、もう五人で集まることもないのかもしれない。自分を守るために、思考はどうしても悲観的になる。始まりがあれば、終わりもある。映画や人生と同じ。期待しないように言い聞かせても、心臓の痛みは消えてくれない。
そして、今回の映画甲子園の結果は、私が「映画」という枠でジャッジされる初めての機会でもある。私にとっては絵や写真よりもずっと重い。本気だからこそ、怖い。
早く誰かの顔が見たくて、気づくと早足になっていた。
理菜に言われた通り北口に向かうと、雑踏の中でひとつだけ動かない、ひょろりとした長身がひとつあった。――永野だ。重たげなピーコート姿。ダブルボタンがあまりにイメージと合わなくて、父親のお下がりだって聞いて納得した覚えがある。いつもと変わらない背格好。
「お、永野だ。あんた背高いから目立っていいよね」
平静を装い、私は声をかける。「だろ?」とひとつドヤ顔をし、「おはよー」と彼が間延びした挨拶をする。おはよう、と私も儀礼のように返す。
「みんなまだ?」
いつもはだいたい佐藤が一番乗りなのに、珍しい。彼は「まだ」とひとつ返事をした後、「うひー、寒ぃー」と自分の肩を抱いた。「早く来ないかなぁ……」
私は肯定も否定もできずにいた。こうやってちゃんと二人きりで対峙するのは、いつぶりだろう。聞きたいことも言いたいこともたくさんあるはずなのに、うまく言葉になって口から出て行ってくれない。
「なんかさぁ」
永野が沈黙を破ってくれる。
「いよいよ結果発表かあって思うとさ、緊張するよな」
「まあね」思いのほかよどみなくでた返答に、自分で少し驚きつつ、私は続ける。「授賞式当日になるまで結果がわからないの、すごいドキドキする」
「……やっぱお前も緊張とかするんだ」
永野が意外そうに言う。お前は私をなんだと思ってるんだ。私は「するよ。人間だし」と素っ気なく答える。それすらどこか懐かしい気がする。だよなあ、という低い声が、北風の中に溶けて消える。
「まあでも、いいところまでは行くんじゃない?」
気づくと口からでていたそれは、紛れもなく本心だった。今なら本音で話せるかもしれないと思う。永野がこちらを見てにやりと口角を上げる。
「『私が撮ったんだし』ってか? 文化祭も大盛況だったしなあ」
「いや、永野が絵を描いたから」
あたりが水を打ったように静かになり、永野の顔からも茶化す色が消えた。見開いた目でこちらを見つめ――そして、目を逸らしてしまう。
「ねえ、永野」
「……なんだよ」
ばつの悪そうな表情。不貞腐れているようで、なのに大人びた目つきが悲しげだった。私は息を吸い、声帯を震わせた。
「なんであんた、美術部やめちゃったの」
「……聞いちゃう?」
永野が一瞬だけこちらを見る。
「うん」
私はまっすぐに彼を見上げ続ける。
誰よりも絵が上手かった永野。誰よりも真剣に絵を描いていた永野。そんな彼が何も言わずに消えたこと。彼がいなくなってから、放課後の美術室が様変わりして見えたこと。かと思えばひょっこりまた現れたこと。色んなことを思い出す。
「別に、たいした理由じゃねーよ。美大行けって言われ続けるのに疲れたから」
永野は何かを誤魔化すように、頭の後ろで手を組む。
彼は、誰から、とは言わなかった。だけどそれで、色んなことに察しがついた。「お前なら藝大も夢じゃない」とパンフレットを手に熱く語る顧問。小学生の頃からプロのまなざしで評価を下す父親。彼の周りにあったプレッシャーがどれほど重かったのかは、私には想像がつかない。……けれど。
「そりゃ、言いたくもなるでしょ。あんな絵を描くんだから」
小六の時に見た宇宙がフラッシュバックする。あの時からずっと、彼の恒星のような煌めきは、私にとって何光年も先の、手の届かないものだった。
「絵は好きで描いてただけ。でもみんな、なぜか『好きならプロになるんでしょ?』みたいな前提で話すんだよな」
苦々しげな口調。彼はまた「みんな」と発言者を濁す。
彼はこの言葉の残酷さをわかっているのだろうか。いくら好きでも「夢じゃなく現実を見ろ」と言われることだって山ほどあって、その中で「プロになるんでしょ」と言われるのは、確かな才能と期待に裏打ちされたものであることに、彼は気づいているのだろうか。
わかってる。永野にとっては、それこそが苦しかったのだと。筆を折らせるほどの重圧だったのだと。わかっているはずなのに――どうしようもなく悔しい。身勝手な感情が胸の中で膨らんでいく。
「私は、プロになりたいけどね」
押し出されるように言ってしまってから、これで後戻りできなくなった、と思った。
「映画監督?」
永野は無邪気に尋ねる。うん、と私は頷く。
「……すげーな、お前」
「別に、好きだからね」
当てつけのように私は言った。誰もが期待する才能がなくても、私は意地でもこの世界にしがみついてやる。そう思った。
「なんだよそれ、眩しー」
おどけ交じりに言う彼が、本当に眩しいみたいに目を覆った。なぜだか泣きたくなった。
私は誤魔化すようにスマホを取り出した。ホーム画面を開くと、映画のグループLINEに、佐藤から通知が来ていた。
『今どこ?』
『亀田さんと永野以外、みんないるよ』
……あれ、理菜、北口って言ってなかったっけ。
そこで私は、理菜の策略に気づいた。ついでに彼女のニヤニヤした笑顔も脳裏に浮かんだ。気を利かせたつもりなのだろう。反射的に眉間にこもった力を緩め、永野にLINEのことを教える。
「げ、オレたちもしかして集合場所間違えてる?」
よく言えば素直、悪く言えばバカ。少し呆れながら「みたいだね」と私は言った。そのまま私と永野は南口の方へと歩いた。永野の歩幅は大きくて、私は少しだけ早足に、やや後ろをついて行く。会話は途切れたまま、沈黙だけがある。
言わなきゃいけないことは、まだたくさんある。正確には、言い残したこと。昔、言うべき時に言えなくて、タイミングを逃したままのこと。
――あの原爆ドームの絵、描いたの私なんだよ。
でも今、私が彼にそう言ったとして、いったい何になると言うのだろう。
だけど、私は――
「永野」
私は思い切って彼に呼びかけた。「ん?」と彼がこちらを振り返る。
――ねえ、私さ、あんたの絵、けっこう好きだったよ。
それをそのまま言うのは憚られた。代わりに、「絵、続けてよ」と私は言った。「別にプロにならなくてもいいから」
頭上から、「おう」と小さな声が聞こえた気がした。
映画甲子園の結果は、入選、優秀美術賞、最優秀撮影賞。総なめとは言わないが、三つの賞をとるという快挙だった。私は初めて永野より上の賞状をもらった。喜ばなかったと言えば嘘になる。「構図と丁寧な画づくりが素晴らしかった。熱量とセンスと技量のどれもを強く感じました」という審査員の言葉も、胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
だけど永野は今回もあんまり喜んでいなくて――何よりひよりと理菜が悔しがって泣いていたから、私はどこか複雑な気持ちだった。私も、欲を言えば、一番上の、最優秀作品賞がほしかった。私の実力がちゃんと通用したのはほっとしたけれど、やっぱり、みんなで作ったものだから。誰一人として欠けてはいけない作品だったから。……高望みだとわかってはいるけれど。
佐藤も満足げな反面、困った顔をしていた。松浦先生が来てくれてなんとか自体が収集し(なんと金一封とか言って打ち上げ用に一万円もくれた)、永野と話すついでに彼に悪態をついていたら佐藤が「おいそこ、いちゃいちゃすんな」と指をさしてきたり、その後みんなでカラオケに行ったり(評判通り佐藤は歌がうまかった)、線香花火の最後みたいな輝きが私たちを包んでいた。
カラオケから出たあと、理菜が私にそっと近寄り、小声で「話せた?」とこちらを覗きこんできた。目的語がなくても、何が言いたいのかはちゃんとわかった。
「……少しはね」
理菜はかすかに笑みを浮かべ、「そっか」と返事をすると、静かに空を見上げた。冬の澄んだ空。目立つ星が点在する中で、小さな星が控えめに瞬いている。一番見つけやすい星座はオリオン座だ。そういえばベテルギウスって、もうすぐ寿命を迎えて超新星爆発をするって聞いたことがある。もうすぐ、って言っても天文学的なスケールだから、十万年とかそういう単位らしいけど。でも、そうしたら、この砂時計みたいな形も作れなくなってしまうんだろうか。
超新星爆発。内部のエネルギーが枯渇して、重力が強くなりすぎて、星が散る。
――永野も、もしかしたらそうだったのかもしれない。
私は酷なことを言ってしまっただろうかと、今更になって気づく。後悔はいつも、取り返しがつかなくなってからやってくる。
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