7、

 受験生ゼロ学期。冬休み前、先生が最初にその言葉を使った時はどこか他人事だった生徒たちも、共通テストまであと一年を切ると、にわかにぴりっとした顔つきになりはじめた。

 映画が完成したのもその頃だった。三年生になって、もう言い逃れようのない「受験生」になる前に、私たちは試写会をやることにした。久しぶりに、私、理菜、ひより、佐藤、永野の五人が集まって、みんなで映画を見た。場所は永野の家だった。父親が出張でいないから、と永野が言い出したのだった。「彼女もそんな風に連れ込んでたんでしょー」と理菜に冷やかされた永野は、「今さら元カノの話すんなよぉ」と苦い顔をしていた。

 永野と木村綾音が別れたのは知っていた。三学期のいつだったか、C組の教室で彼女がこれ見よがしに泣いていて、いつも一緒にいる女子たちに慰められていたのは有名な話だ。

 映像がはじまると、行きがてらみんなで買ったポップコーンには、誰も手をつけようとしなかった。みんな食い入るように画面を見ていた。私は映像そのものよりも、みんなの反応や、美術室とどこか似たにおいのする永野の家の空気に気をとられて、ろくに集中できなかった。

「映画くらげと花火製作委員会」

 その文字が消えて、エンドロールが終わる。

 誰からともなく漏れる嘆息。

「ゆーいー! まじですごかったよー! 自分の演技なのに演出よすぎてちょっと泣いちゃったよー!」

 理菜が勢いよく飛びついてきて、バランスを崩す。後ろで受け止めたひよりが、「惟ちゃんほんとお疲れ、がんばったねえ」と反対から抱きついてくる。

 前後から圧迫される私を見て、佐藤が苦笑する。「うん、本当、クオリティ高かった。亀田さんの全力、想像以上だった」

「いやー、マジそれな! これ、映画甲子園の賞とか総なめじゃん? 下手な邦画より見入っちゃったもん」

 永野の大袈裟な声とともに、照明がついて、部屋が明るくなる。大きなテレビの真っ黒な画面が私たちを映す。その周りにあるたくさんのDVDは、洋画から邦画まで名作ぞろいだったけれど、なんとなく永野の趣味じゃない気がする。父親のものだろうか。

 でも、きっとたくさん見てるんだろうなと、直感的に思う。そんな雰囲気なんてまるで出さないくせに。永野にはそういうところがある。

「賞総なめとか……そんな甘い世界じゃないよ。本気なのはみんな同じなんだから」

 どこか温かいくすぐったさを、私はそう言って消そうとする。「もー、素直に喜びなさいよ」と理菜に頬をつつかれ、押し出されたように「でも」と声が出た。

「ここにいる全員が一生懸命やってくれたから、私も頑張れたのかも」

 佐藤の発案と、ひよりの脚本。理菜の演技。永野の絵。どのピースが欠けていても、この映画は完成しなかった。しん、と周りが静かになる。

「惟~!」

「惟ちゃん!」

 理菜とひよりが同時に抱きしめてきて、前後からますます圧迫される。苦しい。何も見えない。「お前らほんと仲いいよなぁ」という永野と、小さく笑う佐藤の声がする。

 それからは、ポップコーンを肴にジュースを飲みつつ、映画の感想や、それと同時に出てくる思い出話に火がついた。BGMや演出や編集、カメラワークや構図に至るまで、みんな惜しみなく褒めてくれるものだから、慣れない私はずっとむずむずしていた。永野もよく喋っていたけれど、なんだか目を合わせられなくて、誤魔化すようにジュースばかり飲んでいたせいで、トイレがやたら近かった。トイレにあるカレンダーが名画シリーズなのも余計落ち着かなかった。一月のカレンダーの『雪中の狩人』も、その説明文も、何度読んだかわからない。

「あとは文化祭の企画募集と、映画甲子園に出して終わりかー。なんか寂しいねぇ」

 何度目かの離席から帰ってきた時、ちょうど永野が言った。大きい身体を持て余すような猫背で頬杖をついている。

「文化祭の企画の提出っていつだっけ」

 なるべくさりげなく、私は尋ねる。

「四月半ばから一ヶ月。ほら、そっから実行委員が教室の配分とかするから」

「そっか、じゃあけっこうすぐだ」そう言いつつ、彼が次の文化祭実行委員長であることを今更思い出す。そして、文化祭が終わると、私たちの学校生活にはいよいよ受験しかなくなる。

「文化祭も映画甲子園も、手続きは俺がやるよ」と佐藤。「一応、プロデューサーってことになってるし。そのくらいはやらせて」

「そういやそうだったねえ」理菜が愉快そうに笑う。

「ありがとう、助かる」私は頭を下げる。

「せっかくだし、文化祭の時は教室暗くしたいよね、映画館みたいに……」

 ひよりの言葉に、「そこは俺がうまくやるから任せとけって」と永野が胸を叩く。「理科系の教室借りれたら、遮光カーテンあるしさ」

「あ、名案! 永野、ひょっとして天才?」

 理菜が身を乗り出し、「へへっ、まあな」と永野が鼻の下をこする。「まーた調子乗ってる」と言いつつ、口角が少しだけ上がっていることに気づく。

 それから文化祭の話に花が咲いた。とりあえず受付の机を置いて人数を数えようとか、アンケートで感想聞きたいねとか、みんなが弾んだ声でアイデアを出し合うのは、なんだかあの夏の始まりを思い出させた。

 話し込んでいるうちに、いつの間にか外が暗くなってきていて、私たちは慌てて片付けをした。玄関での別れ際、「またみんなで語ろ!」と理菜が言った。「このメンツまじで楽しすぎるから! ずっと仲良くしたい!」

 ――あれを一夏の思い出になんかさせないよ。あたしがさせない。

 秋に言ってくれたあの言葉は本気なんだ。そう思うと、胸に熱いものが湧き上がってくる感じがした。

「うん、また話したいね」とひよりが強く頷く。

「いいな、それ」と佐藤が微笑する。

「ははっ、青春ぽいこと言っちゃってぇ」と永野がからかい交じりに言う。

 私は顔を上げる。永野のおどけた笑みを見る。その日はじめて、永野と目を合わせた。

「……私も、また集まりたい」

 永野は少しきょとんとし、「オレも」と穏やかに笑った。少しも無理をしていない、道化のようでもない、すごく優しい笑みだった。私はさっと目を伏せる。


 文化祭の日、受付を最初に務めたのは私だった。予告編が繰り返し流れる地学室。かちかちとカウンターを押し、アンケート用紙と鉛筆を配る。人数は思いのほか多く、誰が来ているのか確認する余裕もなかった。

 時間になったら注意事項のアナウンスをし、パソコンを操作して、再生ボタンを押す。手が震える。薄いざわめきが消え去る。観客の反応に、心臓が飛び出そうなほど緊張しながら、映画の終わりを待った。

 最後にアンケートを回収し、ひとまず仕事が終わった。その瞬間に身体中が大きく弛緩する。次に受付をやる理菜を待っている時、手持ち無沙汰の解消になんとなくアンケートを眺めていた。評価は悪くない。びっしり感想を書いてくれた人もいる。ありがたい。胸が躍るような気持ちで次へ次へと目を通していると、ふと、めくる手が止まった。

『高校生が作ったにしてはうまいと思う(笑) いい思い出づくりができてよかったね! エキストラがんばったのに一瞬しか映らなかったのはショックでした(泣)』

 誰が書いたのかは嫌でも察しがついた。こっそりスマホで写真をとって、理菜とひよりとのグループLINEに送る私は、性格が悪いだろうか。とりあえずこれも「貴重なご意見」として机の中に入れておいた。あとで永野と佐藤も目にするだろう。これも性格が悪いだろうか。でも、あの子ほどじゃない。なんて思ってしまう自分が嫌だと思う。

 反応はすぐに来た。「うわ~~~」という文字列のあとにドン引きのスタンプ。これは理菜。「わざわざ見に来て書くあたり執念すごいね……」とひより。

 あの子にはもう、オープンキャンパスで会った大学生の彼氏がいるらしい。あとで合流したとき、理菜がそっと教えてくれた。だからさ、嫉妬とかじゃなく完全に嫌がらせなんだよ。不味いものを吐き出すように、理菜が言った。

 理菜は「嫌がらせ」という強い言葉を使ったけれど、私はどこか違う気がしていた。あの子の世界では常にあの子が中心で被害者だ。きっと、「私が出た映画なんだよ」と彼氏を引っ張っていって、期待しているより自分の存在感がなくて、面目がつぶされたように感じて、「ひどい」と純粋に傷ついて、あれを書いたのだろう。前の二文にはかすかに悪意はあっても、それはむしろ敵意に近いものとして攻撃が正当化される。こっちが渋面を作ると「そんなつもりはなかった」と言い逃れができる程度に、けれど的確に相手の急所を抉る。ほとんど手癖みたいに無意識にそれができる程度には、あの子は世慣れていて、したたかで、この世界で生きることに長けている。

 そして、あの子はどうしようもなくマジョリティだ。それもわかっている。

 なるべく「いい大学」に行って、「立派な就職先」で働くことを目指す。まっとうに「学生らしく」部活や勉強に打ち込み、「友達」「彼氏彼女」という人間関係をうまく回し、先生に気に入られる。それがここでの価値だ。誰かを攻撃してもバレなければいい。バレたとしても「相手にも理由があった」と責任転嫁さえできれば、問題視される俎上にすら上がらないし、むしろ相手の方が問題アリと扱われる。それが学校という世界の中での真っ当な論理だ。

 異分子は私の方だ。そして、この小さな箱庭を卒業しても、きっとこういうことは、形を変えながら続いていく。

 だけど、異分子でいることを選んだのも私だ。クリエイター職なんてきっと、よっぽどの一流にならない限り、「好きなことにみっともなくしがみついている、大人になれない人」の烙印を押されるだけだ。私はそんなことわかりきった上で、映画監督という道に進もうとしている。具体的に想像はつかないなりに、たくさんの苦労があることも、仕事にできたとしてキツいことばかりなことも、わかっている。この先のことを考えたら、こんなのきっと攻撃のうちに入らない。

 だから、傷ついてはいけない。傷つくようなことじゃない。じゃないとこの先の茨道を歩いていくことなんかできない。

 私は傷つかない。

 私は、傷つかない。

 何度も言い聞かせながら、私はゆっくりと呼吸をする。


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