6、

 あ、そっか。

 と、急に腑に落ちた。冬休み明けのロングHRでのことだった。

「高校二年生の三学期は、受験生ゼロ学期と言われます」

 そんな手垢にまみれた言い回しから、担任の話は始まった。要約すると「三年生になってからではなく、今のうちから受験生だと思って勉強しなさい」というようなことを、時には色んな比喩や婉曲を使って、時には「さっきも聞いたよ」という内容をまた一から言い直して、担任は延々と語る。メッセージを伝えることよりも話すことに酔っているような長話の中で、私はやっぱり未完成の映画のことを考えていた。完成系は何度もイメージしたせいでとっくに脳内に焼きついている。今日やる作業の整理が終わると考えることはすぐになくなって、それでも担任の話は続いていた。

 やがて、担任がプリントを配り始める。低身長のせいで最前列になりがちな私は、担任から渡されたままの束から一枚抜いて、それを後ろに回す。

 漫然とプリントを眺める。進路希望調査、と格式ばった文字。

「これは次の三者面談の時に使うから、今までの模試の結果なんかも参考にしながら、よく考えて書くように」

 今回は本当にふざけて書くなよー、と特定の男子数名を見ながら担任が言って、少し笑いが起きる。そういえば、いつかの簡易的な調査の時は、女子大の名前だけを書いた男子たちが職員室に呼び出されたと聞いたことがある。

 机上に置かれたプリントは、一枚の紙きれなのにやけに重く見えて、でもやっぱり吹いて飛びそうなほど軽い。三年生になる前の最後の進路希望調査だから重要なのは確かだけれど、この後の模試や共通テストの結果次第でいくらでも覆りようがあるものだと、なんとなく知っているからかもしれない。

 真っ白な進路希望用紙といえば、物語にはおあつらえ向きな小道具だ。青春モノの映画や小説や漫画で、何度となく目にしたことがある。たいてい主人公は進路に迷っていて、そんなときに人生を変える何かと出会ったりする。定番ってことは王道ってことで、普遍性があって共感されやすいってことだ。

 だけど、私の手は迷わなかった。誰よりも早く立ち上がった私に、ざ、と視線が集まり、そしてすぐに散った。制服を身にまとった黒い頭が、各々自分の机上を睨んでいる。ある生徒はぴんと背筋を伸ばしながら、ある生徒は気だるげに頬杖をつきながら、ある生徒は頭を掻きながら。学校のタブレットで調べものをしている人もいるし、持ち帰りを早々に決めて課題をやっている人もいる。ここにいる生徒たちはきっと、誰一人として全く同じ文字列を書くことはない。

 ――あ、そっか。

 と、唐突に私は思った。同じ制服でラッピングされ、同じ教室に梱包され、同じ校舎にいても、私たちはみんな、ずっと別の方向を向いていたのか。

 だから、あの夏は――みんなが同じ方向を見ていたあの瞬間のひとつひとつは――、本当に特別だったんだ。特別だから、あんなに鮮烈だったんだ。今までは寂しさを誤魔化すために自分に言い聞かせていたことが、単に事実として腹落ちした瞬間だった。

 私はひとつ深呼吸をして、怪訝そうにこちらを見ていた担任のもとに近づいた。私からプリントを受け取った担任は、上から下までを視線でなぞりながら、どんどん顔をしかめていった。理由はすぐにわかる。私の書いた進路希望調査は、全部の末尾が「映像学科」か、それに類するものになっている。前に進路希望を提出したときも、同じように渋い顔をされて、「真面目に考えろ」と突き返された。「真面目に考えた結果です」と返したら、「とりあえず今回はこれで受け取るけど」と深い溜息をつかれた。今回もあの時と全く同じ表情をしている。

「何度も言うけど、亀田の学力ならもっと――」

「変えるつもりはありません」

 担任の言葉を遮り、私はきっぱりと言い切った。担任はますます渋い顔をして、何か言いたげに口を開き書けたが、結局出てきたのは吐き捨てるような「まあいい」だった。ちっともよくなさそうだったから、きっと私は三者面談でさんざん絞られるのだろう。

 そして三者面談は予想通りの展開を迎えた。担任は父に向かって「惟さんの成績を考えると、もっと上のレベルの大学も狙えます」と熱弁した。大学が偏差値順に並べられた大きな表を広げ、「惟さんならこのくらいのところを受験してもいいと思います」とあちこち指をさされる。私の方を一切見ないのは、親を口説き落とせれば、大人ふたりがかりで私を説得させられるとでも思っているのかもしれない。これじゃ三者面談じゃなくて二者面談じゃん、と私は冷え切った目でやりとりを眺める。父が「はあ」としか返事をしないのをいいことに、担任は饒舌だ。

 この学校には、国公立こそ第一志望であるべきという変なイデオロギーがある。でも、私の本当に行きたいところは、一番魅力的な映像学科のある私立の美大だった。そこだけは絶対に譲りたくなかった。一応、第三志望に映像学科のある公立大学の名前も書いていたが、担任はきっと、そこの大学名と偏差値だけを見てこの反応を示している。

 私は静観を決め込んでいたが、担任の口から出た「勿体ない」という言葉に、つい口をはさんでしまった。

「勿体ないって、何がですか。私が先生のお眼鏡にかなう国公立を受験しないからですか」

「そんなことは言ってないだろ?」

 そんなことしか言ってなかっただろ、と私は思う。

「ていうか先生、第一志望って文字読めないんですか。私が本当に行きたいのは――」

「そもそも、亀田はこのごろ美術部に顔を出していないだろ? それで美大っていうのも無理筋だと思うけどな」

 さえぎられた上に、勝ち誇ったように言われる。それでも私は淡々と返す。

「実技があるのは造形学部の話で、ここの映像学科は造形構想学部なので国語と英語の試験だけで入れます」

「いや、そういう問題じゃなくてね?」と担任は宥めるように言う。

「というかほら、映像を作りたいんだったら、サークルとか他にも選択肢はあるじゃない」

 普段は威圧的な口調のくせに、親がいるから猫なで声なのだろう。心底気持ち悪い。

「私は映像を“勉強”したいんです。趣味や遊びでやりたいわけじゃない」

「何、映画監督にでもなりたいの?」

「はい。いけませんか」

 私は即答する。担任はなんとも言えない表情を浮かべていた。

「もう高校生なんだから、夢ばかり語ってないで、そろそろ現実見ないと。いざって時につぶしがきかなくて困るのはそっちだからな? 今のうちから、冷静になって、きちんと将来のこと考えてないと、大人になってから苦労するぞ。これは亀田のことを思って言ってるんだよ」

 その口調の中には、「この子は世間を知らない子どもだ」という嘲笑が含まれていた。この人は私の覚悟も努力も全部侮っているのだと思った。これが目指しているのが「国家公務員」とかだったら向けられない類の侮蔑なのだと思うと、ますます納得がいかなかった。

「ねえ、お父さん」と、担任がまた猫なで声で父の方を見る。

「ええ、よくわかりました」

 父が静かに言って、担任はほっとした顔をした。私は肩にぐっと力をこめる。父は穏やかな顔のまま続けた。

「先生が、娘の選択よりも学校の進学実績の方が大事だってことは、よくわかりましたよ」

 一ミリも崩れない微笑。沈黙がやけに長く感じた。担任だけでなく私も驚いていた。

「いえ、そういうわけではなくて、私はただ」と担任は滑稽なくらい慌てる。「だって、お父さん、いいんですか?」

「娘の人生ですから」

 にこり、と父は笑った。担任は面喰ったまま固まっていた。

「先生、面談時間は十五分でしたよね? そろそろじゃないですか?」

 父の言葉に、担任はやっと硬直がとける。時計は予定時間より少し早いが、「それじゃ」と父はすぐに立ち上がり、私も続けて椅子を引いた。ぽかんとしている担任を置いて、私たちは教室を出た。


「驚いたな。惟があんなに大人に反抗的なの、初めて見た」

 廊下を歩いている時、父は愉快そうに言った。「ムカついたからね」と言うと、「ははっ、確かにね」と声はますます弾んだ。何がそんなに嬉しいのだろう、と思う。

「驚いたのは私の方だよ。お父さんは私が映像学科に行くの反対だと思ってた」

「そんなこと言ったかな」

「言ってはないけど。『ここ行きたい』ってパンフレット見せた時、すごい真顔だったから」

 あの時、「映像学科! いいじゃん! テレビ局とか年収いいらしいよ!」とかはしゃぐ母と対照的に、父は無言でパンフレットを睨み続けていた。それから、「うん」とだけ言ってパンフレットを返した。父は昔から、基本的に私のやりたいことには「まあ、頑張りなよ」と笑って言ってくれる人だったから、私はそれだけで色々なことを察した。

 小さいころから父と一緒にたくさん映画を見た。映画について語った。自主映画を作ることについても話していた。だからたぶん、あのパンフレットを見ただけで、父は私の真意を悟ったのだと思った。

 父は昔カメラマンになりたかったらしい。けれど、結局は就職して、今はシステムエンジニアをやっている。その途中にある紆余曲折を父は語らないが、語らないからこそ強烈に焼きついているものであることは、容易に想像がついた。

「まあ、頑張りなよ」

 しばらくの間のあと、父が言った。私は思わず父を見上げた。

「いいの?」

「惟のあんな気迫見たら、誰だってそう言いたくなる」

 そっか、と視線を前に戻した時、教室の扉からにゅるりと影が出てきた。見覚えのある長身。……が、二つ。

 知らないふりをして通り過ぎれないかと思ったのに、ちょうど目が合ってしまって、無視するわけにもいかなくなる。

「……永野」

 どんな顔をしていいのかわからない。

「わ、亀田さんもこの時間だったんだ」

 永野も永野で、どこか戸惑ったような表情をしている。永野の横に立っていた男性――たぶん父親だろう――が、「友達?」と低くて静かな声で問う。森にある深い色の影みたいな声だった。彼と永野は親子のはずなのに、雰囲気も顔立ちもまるで違う。

 永野が何か耳打ちし、永野の父親が「ああ」と小さく呟いた。呆然としていたら、父に肩をつつかれた。「一緒に映画撮った子。助監督」と、私は手短に説明する。

「どうも、うちの娘がいつもお世話になってます」

「いえ……こちらこそ」

 父の会釈を皮切りに、大人たちが上滑りするような会話をし始める。残された私と永野も、お互いぎこちなく目を見合わせた。親が隣にいるのも気まずいし、何より夏休み以来ろくに会話を交わしていない。気まずい沈黙の中で、永野が口を開いた。

「お前んちも父子家庭だったっけ」

「いや……うちは、お母さんが面談忘れて友達と旅行しに行っちゃってて、お父さんが慌てて会社休んで」

「あー、なるほど」

 それきり会話が途切れる。親たちはまだ話し続けている。

「お母さん、自由すぎて困るんだよね。いつまで経っても子どもみたい」

 会話をつなぐためだけにとりあえず言った、だけだった。だけど永野は、ちょっとだけ目を見開いて、口を開きかけて、閉じた。ひと呼吸ぶんの間。それから彼は、「そっか」と自嘲っぽい笑みを浮かべた。

「お母さん、ね……」

 どこか遠い目をして、彼は言った。

「……永野」

「ん?」

「その悪ノリ、いい加減やめた方がいいよ」

「あ、バレてた?」

「美術部の時もさんざんやってたじゃん」

「だって楽しいんだもん」

「楽しいのあんただけだよ」

 永野はドヤ顔でピースを作る。私が顔をしかめると、彼はますます煽るように口角を上げる。それから、何かに耐えられなくなったように「いひっ」と笑い出す。

「いやー、懐かしいな、このムーブ」

 永野はずっと肩をあげて笑っている。悪趣味、と私が吐き捨てると同時に、永野の父親が彼の肩を叩いた。

「慶太、そろそろ帰るよ」

 はーい、と永野はお利口さんな返事をする。「じゃあな」と手を上げられて、とりあえず上げた手が、彼らが遠ざかるにつれて迷子になる。

「仲、いいんだね」

 父が言った。「これは、『娘はやらん』って言う練習しないとかなあ」と、なぜだか嬉しそうに、からかい交じりに。

「別に、そうでもないよ」

 私は父を置いて歩き出した。父が慌てて追いついて、歩調を合わせてくる。上履きの音と、来客用のスリッパの音が、不思議な連符を奏でる。

 別に、そうでもないよ。

 自分で言った言葉が、耳元でもう一度聞こえる。

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青い炎が爆ぜた 澄田ゆきこ @lakesnow

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