3、
実を言うと、六月の文化祭が終わるまで、私は永野が美術部をやめたことに気づかなかった。私はクラスの出し物の準備で放課後が潰れることも多く、永野も確か文化祭実行委員だったから、お互い忙しいのだろうくらいに思っていた。ところが、永野は文化祭が終わっても美術部に顔を出さなかった。
永野のいない美術室は、やけに静まり返っている気がした。
その日は移動教室の途中で顔を見ていたから、欠席ではないはずだった。怪訝に思いながら画材を片付けていた時、永野の画材も、描きかけのキャンバスやスケッチブックもすっかりなくなっていることに気づいた。嫌な予感がした。顧問に単刀直入に聞いてみたら、顧問は答えにくそうに、彼が退部届を出したことを告げた。
永野が部活をやめた。どこか消化しきれない気持ちを抱えたまま、帰りの電車に揺られる。吊革は高すぎて届かないから、私は銀色の手すりを握っている。冷たかった金属が次第に手の温度になっていく。
そういえば、受賞を祝われた時も、永野の様子はどこかおかしかった。美術室にいるはずなのに、彼の態度は「作った」明るさそのものだった。その後、春休み前に一度、私は廊下で永野を見たことがある。彼の前には金賞をとった絵が飾られていた。永野がそれを眺める表情にはまるで彩度がなかった。
――「金賞」のあんたにそんな顔されたら、他のやつらの立つ瀬がないじゃん。
と思ったことを、私はなんとなく思い出した。永野の隣で「佳作」の賞状を受け取った時の、言葉にならない惨めさも。
勝ち逃げ、という言葉が頭をよぎった。一瞬でも彼と横並びだと思っていた自分がバカみたいだと思った。英才教育の賜物なのか、永野は人の絵のいいところを見つけるのが上手かった。それでもやっぱり頭一つ抜けて上手いのは永野の絵で、そんな彼に認められることが嬉しかったのは、たぶん私だけじゃないと思う。
結局勝てないまま終わるのか、と思った。小学校六年生のあの時は、県のコンクールで「金賞」と「銀賞」だった差は、全国のコンクールでの「金賞」と「佳作」にまで開いて、でも永野はちっとも嬉しそうじゃなくて、飲み終わったジュースの缶でも捨てるみたいに、あっさりと絵を手放した。顧問から「本気でやったら藝大も夢じゃない」とか言われて美術予備校のパンフレット渡されてたくせに。そんなことを言われていたのは、美術部の中でも永野だけだったのに。
でも、私には悔しさを感じていい資格もなかった。私が得意だったのは静物画や風景画だけで、苦手な人物画や抽象的なテーマには逃げ腰だった。写真部は基本的に自由活動で、活動日はたまのミーティング以外あってないようなものなのに、写真部を言い訳に使って休むことも多かった。
学年が変わり、文化祭の準備が本格的に始まってからは、映像を撮ることや編集作業に夢中になった。絵や写真はこのためにやっていたのだと思った。私にとっては美術部も写真部もそうやって踏み台扱いする程度のものでしかなかった。
なのにどうして、永野がいなくなって、私が残ったんだろう。
いっそ私も美術部をやめてしまおうか。他の美術部の同級生みたいに、美大に行きたいとかイラストレーターになりたいとか、そういう熱意があるわけでもないし。でも、このタイミングで私まで部活をやめたら、永野の影響だということが見え見えで嫌すぎる。
でも、そうやって惰性で部活を続けていって、何になるんだろう。
私は迷子だった。恒星を失った惑星みたいに、公転軌道をなくして、熱もなくして、ふわふわ宇宙をさまよっていた。
翌日、昼休み。教室で友達とお昼を食べていたら、急に「亀田さーん」と声がした。見ると、入り口のドアの向こうで、永野がぶんぶん手を振っていた。見覚えのある光景だった。永野が美術部をやめていることと、隣に佐藤――永野と同じクラスの学級委員だ――がいるのを除けば。
なんでも恋愛につなげたがる理菜に冷やかされ、「まあ、とにかく行ってきなよ。待たせるのも悪いし」と人の好いひよりに促され、私は席を立った。
「何?」
廊下に出るなり、私は率直に尋ねた。何か言いたげに口をもごもごさせる佐藤をちらりと見て、永野がにやりと口角をあげた。
「亀田さん、もう一回ビデオカメラ持つ気はない?」
「え?」
「映画撮ろうぜ、オレたちと」
話が読めなかった。それでも、混乱の中で確かに胸は高鳴っていた。
映画。
文化祭の映像は楽しかったけれど、何せ持ち時間が五分程度と短くて、クラスの全員を映さなければいけないという縛りもあって、正直なところ不完全燃焼だった。結局作れたのは、映画の予告編をいくつか繋ぎ合わせたような映像だった。それだって十分に楽しかった。本当に楽しかった。……けれど。
「映画……」
私は噛みしめるように口にする。長尺で、役者を選んで、雰囲気だけじゃなくてちゃんとストーリー性のあるものが作れる。撮影時間もちゃんと取れる。
「……どうかな。難しかったら全然断って大丈夫なんだけど」
佐藤が不安げにこちらを見る。「いいよ、やりたい」と言うと、佐藤の顔は一気に明るくなった。横で永野が「な、言ったろ、大丈夫だって」と得意げに耳打ちする。
「発案者、佐藤なんだね」
いわゆる「優等生」の域を出ない彼がこんなことに興味を持つのは、どこか意外だった。
「ああ……うん。俺さ、A組の映像見て、すごい衝撃受けて……高校生でもこんなにすごいものが作れるのかって。だから、なんていうか……亀田さんが本気で作った一本の映画、見てみたいって思って」
衝撃。その言葉が耳にやたら強く響いた。小六の時のビッグバンを思い出した。あの時私の心に生まれた宇宙みたいなものを、私は佐藤の中に作れたのか。私の映像で。
喜びを感じる前に、私はすでに映画の構成をぐるぐる考え出していた。演技のできる理菜を画面の中心に据えて、脚本は私が書くよりも、文芸部で物語を書きなれているひよりの力を借りて……そうしたら、この学校で考え得る最高出力が出来上がるはずだ。
鬱血していた部分に、また血が通い出したような感じがした。
「理菜とひよりも誘っていい? 演技ができる人と、脚本を考えられる人もいた方がいいでしょ」
私の言葉に、佐藤は神妙な顔で頷き、永野は「いいねえ」とますます愉快そうにした。
「丹羽さん、A組の映像でも目立ってたよなぁ。格の違い感じたわー」
「本当。少ししか出せないのがもどかしかった」
「ひより……って、文芸部の田上ひよりさん?」と佐藤。
「うん。知ってるの?」
「部誌に載ってるのを読んだことがあるんだ。正直読みづらいのもある中で、やたらクオリティ高いのがあったから、印象に残ってた。上手いからてっきり上級生だと思ってたんだけど……そうか、同学年だったんだな」
「お、何なに、けっこうファンな感じ?」
永野が茶化す。「そういうんじゃ……」とまたもごもごしだした佐藤を尻目に、永野が教室の中にいる理菜とひよりを呼び出した。
それから、あれよあれよという間に映画作りが始まった。永野は相変わらず余所行き仕様だったけれど、金賞の絵を前にした時の辛気臭い顔を見ているよりはマシな気分だった。なんの因果か映画が美術部の話に決まり、私はここぞとばかりに永野に絵を押し付けた。嫌がる永野に意地悪ができるのはどこか痛快な気分だった。出てきた絵のクオリティもやっぱり永野だった。
映画作りが始まってから、私の視界はワントーン明るくなったような気がした。私は生きてる。心からそう思えた。打ち合わせも、撮影も、撮影後の勉強会も、一瞬で過ぎ去った。すべてが順調とは言えなかったが、想定外のものがいい素材になることもある、映画のそういう生き物じみたところも面白かった。
消えたと思っていた恒星が、急にまた私の前に現れて、公転軌道に戻してくれた。そんな感じがした。
けれどそれも一夏だけの魔法だったのだと、私はすぐに思い知ることになる。
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