2、

 雲の上の天才だと思っていた「永野慶太」は、拍子抜けするほどあっさりと私の前に現れた。

 最初に存在を認識したのは、高校一年生の四月、美術部に部活見学に行ったときのことだった。比較的静かな生徒が集まる美術室の中で、やたらうるさい男子の三人組がいて、その中で頭ひとつ背の高いやつがひときわ大きな声で喋っていた。上履きの色を見るに、どうやら全員同じ一年生らしかった。どう見ても美術室なんかに来る部類の人間には見えなかった。うざいし騒ぎたいだけならどっか行ってくれないかなと思っていたら、「おいナガノ、睨まれてんぞ」と男子生徒の一人が言った。背の高いやつがこちらを向き、サーセン、みたいな所作で笑顔のまま頭を下げた。

 この時は、「ナガノ」と「永野慶太」とは全く結びついていなかった。そう珍しい苗字でもないし、どうせ今後は関わらない人間だと思っていた。

 意外なことに、てっきり冷やかしだと思っていたそいつは、その後も美術室に現れ続けた。他の男子生徒の姿はすぐに見なくなったのに、ひとりでも来るってことは、本気で入部するつもりなんだろうか。しかもそいつは――その時はまだデッサンしか見ていなかったが――けっこう絵が上手かった。なんか腹立つし、でも自分が美術部を諦めるのも嫌だし、と思いながら私も美術室に通った。もっとも、私は写真部の入部も検討していたので、活動日がかぶる日は交互に行くしかなかった。もしかしたら彼は私よりも足しげく美術室に通っていたのかもしれない。

 何回目かの体験、顧問が来る前の手持無沙汰の時間に、彼が私の隣に座った。「絶対に話しかけてくるな」と心の中で唱えていたのに、「ねーねーねー」と横から声が聞こえた。無視を決め込んでいたがいっこうに声はやまず、それどころか「ねー!」「ねーってば!」とどんどんやかましくなっていく。

「あーもう、うるさいな。ナガノだっけ? ちょっとは黙れないの?」

「あ、オレの名前知ってる感じ?」

 なぜだか嬉しそうなナガノに、怒りが三周くらいして、逆にどうでもよくなった。

「……だから?」

「いや、女子に名前覚えてもらえてんの嬉しいなーって」

「あんだけ目立ってたら嫌でも覚えるから」

「オレそんな目立ってた?」

 嫌でも、の部分を強調したのに、ナガノには馬耳東風だった。面倒になったから再び無視することにしたら、「ねーどこが? どーこーがー?」とますます鬱陶しくなった。

「……身長」

 絵と答えるのは癪だった。

 ナガノは一瞬だけ真顔になった後、「あーね」とよくわからないことを呟いた。そしてにやっと笑った。一挙手一投足が腹立つなこいつと思う気持ちを、ぐっと抑える。怒ったら負け、怒ったら負け。こんなバカ相手にムキになるのは大人げない。努めて無表情を保っていたら、彼が言った。

「身長なら亀田さんも目立ってるよー? そのミニマムなサイズ感」

 殺すぞと思った。

 思わず出てしまった殺気を感じ取ったのか、彼の肩がびくりと跳ねた。「冗談、冗談、イッツジョーク」と引きつった笑顔で言い、ぶんぶんと両手を振る。

「ね? 落ち着いて? 新入生の中に小学生交じってんじゃんとか思ったこと全然ないし」

「殺すぞ」

 今度は口に出ていた。

「てかさー、亀田さんって美術部入るの?」

「なんでこの状況で会話続行できると思ったのか全然わからないんだけど」

「亀田さんって絵うまいよなー、デッサンの正確さ見習いたいわ」

「話きいてる?」

「下の名前なんて読むの?」

 埒が明かない。もはや怒りを持続させることにすら疲れて、長い長い溜息が出た。頭が痛い気がする。額に手を当てて目を閉じて、――そしてはたと気づく。

 ……ん? なんて「読むの」?

 怪訝に思って彼を見上げると、彼もなぜかきょとんとした顔をしていた。

「私、いつ名前の漢字教えた?」

「え? 名札」

 彼が自分の胸元を指さす。プラスチックの名札の文字を見て、私は固まった。

 永野慶太。

 間違いなく、そう書いてあった。

 私の頭はたちまち混乱で埋め尽くされた。その間にも永野は何か話しかけてきていたが、まるで頭に入らなかった。

「……あのさ」

「お、何々、やっと教えてくれる感じ?」

「あんた小六の時、星空の絵で金賞とったりしてない?」

「え? あー、んー」

 意味のない音をしばらく発した彼は、そのまま急に無言になった。かと思えば、また例のにやりという笑みを見せた。

「下の名前教えてくれたら教えてあげようかなあ」

 忘れかけていた苛立ちの炎がまた吹き返した。知りたい気持ちと、教えたくない気持ちと、天秤の両皿がぐらぐら揺れる。その間にも永野は私をにやにや見下してくる。身長差のせいでどうしてもこの構図になるのが忌々しい。

「……ゆい」

 この時の私はたぶん、教科書でおなじみの慣用句である「苦虫を嚙み潰したような顔」をしていたと思う。

「……で、どうなの」

「はいはい、あれなー。確かに金賞だったけど。……正直、あまりいい思い出ない」

 え、と声が口から転がり落ちた。またお得意の冗談かと一瞬思ったけれど、すぐにそうじゃないことがわかった。さっきまで身体だけ成長した小学生男子みたいだったくせに、今は誤魔化すように浮かべた笑みが悲しい大人みたいだった。

「……父親がさ、」

 私が何か聞く前に、永野は喋り出す。初めてそれをありがたいと思った。

「展示行った時、ほとんどオレの絵見なくて。代わりにずっと他の絵見てたわけ」

 永野は静かに語る。甲高い印象しかなかった永野の声が、実はちゃんと低いことに、初めて気がつく。普段もこうやって喋ってればいいのに、その方がああやってぎゃんぎゃん騒ぐより女子ウケよさそうなのに、バカだなあ、と思って、なんとなく今のほうが永野の核に近い部分に触れているんじゃないかとか思って、だからこそ言葉の続きを聞くのが怖くて、余計なことを考えようとして、考えようとして、考えようとして、

「今でも覚えてる。銀賞の、原爆ドームの絵だった」

 思考が止まる。

 空白の時間が流れていく。

 全部が止まっている。ずっと鳴っていたはずの秒針の音も、色んな音や声が混ざり合ってひとつになった放課後特有の喧騒も、分子の運動も、私の心臓も、全部が止まる。

 思い出したのは、小学生の時に見た映画だった。うちは共働きだったから夏休みの平日がとにかく暇で、宿題をやった後は家にあった映画のDVDを手あたり次第に見ていた。

 ある日見たDVDは戦争映画だった。物語の終盤、飛行機から原子爆弾が落ちる映像の後、順番に色んな景色が映された。赤ちゃんをおんぶする女性。走りまわって遊んでいる子ども。お茶を飲む老夫婦。水につけてあるお茶碗。庭に置かれた洗濯桶。揺れる風鈴。道端の小さな花。後に「原爆ドーム」になってしまう丸屋根の建物。街並み。街並み。街並み。そして、すべてが真っ白になっていく。その静止と無音。

 テレビはただ白い画面を音もなく映していた。それが震えるほど怖くて、目を逸らしたくてたまらないのに、私は金縛りにあったように画面を見続けていた。数秒にも満たないほんの一瞬が、永遠みたいに長かった。

 かちり。と秒針が鳴る。

「まー確かに上手かったんだよその絵、色は地味なのに精密すぎてバカほど目立ってたし。マジ写真かよって感じで。でもオレの絵には『上手く描けてるけど、ちょっとテクニックに頼りすぎかな』しかコメントしなかった父親がさ、その絵のことはじーっと見てんの。『構図と雰囲気づくりはこの子が図抜けてるね』とか言っちゃってさ。おまけに『今回は慶太が金賞だったけど、“小学生の部”じゃなかったらこの子が金賞だったかもよ』とか言ってマジでぽかんって感じで」

「あーもうわかったわかった、うるさい」

 爆風みたいに喋り出す永野を手で制す。永野は不満そうだったが、その顔はいつもの子どもじみたものに戻っている。

 拍動が速い。動揺を悟られないように、私は静かに息を整える。

「でも、写真みたいな絵なんだったら、写真をうつしただけかもよ」

 胸が痛い。なるべくさりげなく言おうとしたこの台詞は、私にとっては罪の告白に等しかった。けど永野はなんでもなさそうな顔で「えー?」と言い、頭の後ろで手を組んだ。

「だとしても、小学生の時点であんだけ正確に模写できる基礎画力がまずすげーし、そもそもその写真が上手かったんじゃん? ネットとか本に載ってるやつの丸写しだったらさすがに審査員が気付いて落とすだろ」

 父のカメラを持った時のずしりとした重みを、私は思い出す。レンズを通して見た空の、曇天なのに異様に眩しかった白さも。建物をどの角度からどう写そうか試行錯誤して、移動したりレンズを調整したりしているうちに、母に「まだー?」と苛立たしげに急かされたことも。

「大丈夫?」

 永野が顔を覗き込んでくる。急に現実に焦点が合う。

「何が?」

「いや、今、どっか飛んでってなかった?」

「ちょっと考え事してただけ」

「人が真剣に話してる時にお前さー」

 永野が唇を尖らせる。ガキ、と思う。

 会話が途切れる。ねえ、と呼びかけようとした時、タイミング悪く引き戸が開いて、顧問が入ってきた。私は何かを誤魔化すみたいにすぐスケッチブックを開いた。隣からも紙のめくれる音がした。

 その日はまるで絵に集中できなかった。普段通りに描こうとしているはずなのに、頻繁に手元が狂って、何度も消しゴムを使った。

 ――構図と雰囲気づくりはこの子が図抜けてるね。

 ――そもそもその写真が上手かったんじゃん?

 永野の台詞が、ひとりでに浮かんでは消える。厳密には「永野の父親」のコメントも含まれているけれど、それは永野の声を通して私の中に再生される。だめだめ、集中しろ、と無理やり鉛筆を動かす。

 永野の父親は、金賞をとった息子にさえ評価が手厳しかった。というか、着眼点とか語彙が妙にプロっぽかった。なんだよ、プロの子どもかよ。そりゃ上手いわけだよ。チートじゃん。でも、描いたものがプロの目に常に晒されて、あんな風にジャッジされ続けるのは、鍛えられそうだけど、きっと嫌だろうなとも思う。それでも絵を描き続けている永野は、写真部と美術部とを二股している私よりずっと、絵というものを一途に好きなのかもしれない。

 ああ、だめだ、集中しろ。

 何も考えない、何も考えない。そう言い聞かせながら、鉛筆を動かし続ける。そうすると今度は、色んな音が急に明瞭になる。紙と黒鉛のこすれる音。画材を持ち替える音。鳥の声。遠くから聞こえるホイッスルの音。吹奏楽部の不揃いな音出し。階段を下りる足音。教室の外の話し声。秒針。美術室は静かだからこそ色んな音が聞こえて、その全部が私の頭をかき乱す。

 そういえば、絵を描き始めてからの永野って、妙に静かだよな。いつもあんなにうるさいくせに。そう思って、ちらりと盗み見た永野の横顔は、怖いくらいに真剣だった。

 私はすぐに目を逸らした。それから、私が気付いていなかっただけで、今までもずっとこういう顔をして描いていたんだろうかと思った。

 意味がわからなかった。バカでうるさい男子の一人でしかなかった「ナガノ」は、「永野慶太」になった途端に、多面性という一言では片づけられない複雑さを帯びた。私はそれを「意味が分からない」という言葉で片づけて、自分の中にあるぐちゃぐちゃした感情と一緒に引き出しに入れて鍵をかけた。

 そのままやり過ごすように絵を描いた。外がすっかり暗くなった頃、やっと部活が終わった。部活に「やっと」という感情を持ったのは初めてだった。終わるまでの時間はやけに長く感じて、でもそのおかげで、気持ちは幾分か落ち着いている気がした。

「はー、終わったぁ」

 永野が間抜けな声を出して横でのびをした。ごきっ、という音が聞こえる。「うわ今やべえ音しなかった?」と話しかけられたが無視した。関節が鳴るほど同じ姿勢を維持していたはずの永野は、部活が終わった途端「ねえ無視しないでよー亀田さぁん」といつもの落ち着きのなさを取り戻した。本当に意味のわからないやつだと思う。

 私は彼を視界に入れないようにしながら、手早く荷物を片付けた。「つーか、部活始まる前、なんか言おうとしてなかった?」という言葉も無視した。

 あの原爆ドームの絵、描いたの私なんだよ。

 なんて、絶対言ってやらないと思った。言いたくなかった。言えなかった。

 彼は懲りずに私に話しかけ続けた。無視を決め込もうとしていたけれど、「亀田さんってオレのことウザいと思ってるでしょ?」と言われて、思わず彼の方を見てしまった。

「……それがわかってるならなんでそんな感じなの?」

「オレさー、オレのことウザいと思ってるやつにウザがらみして嫌な顔されんの、けっこう好きなんだよね」

「へー、きもいね」

「いや、別にマゾとかじゃなくてさ、そうしてるうちに案外仲良くなれたりするんだって。オレなりの処世術」

 ドヤ顔。しょーもな、と吐き捨てて、まとめ終わった荷物を肩にかける。教室を出てからも、永野はまとわりついてきた。

「ていうか亀田さんって教室でもそんな感じなの?」

「……」

「もっと愛想よくした方がいいと思うよ。オレみたいに」

「……」

「惟ちゃんって呼んでいい?」

「ぜっっっったい嫌」

「すげー力こめるじゃん……」

 昇降口まで来ると、下駄箱がクラス別だから、さすがに永野は私から離れた。ほどなくして、彼のクラスメイトらしい男子生徒たちが永野を見つけ、楽しそうに騒ぎ出す声が聞こえた。私は素知らぬふりをしながらその横を通り抜けた。てっきり挨拶でもしてくるかと思った永野は、男友達と話すのに夢中らしく、こちらに視線を向けることすらなかった。



 四月が終わり、私は正式に美術部と写真部の部員になった。美術部の新入部員の中には永野もいた。永野は誰よりもうるさくてやかましかったけれど、一度絵を描き始めると、誰よりも静かに集中していた。そのコントラストの大きさと、絵を描いている時の気迫には、いつまで経っても慣れなかった。

 けれど、彼の過剰なまでの明るさは、輝きを失わない程度に落ち着いていったように見えた。美術室にいる間は無理にふざけたりおどけたりしなくなった。会話がまともにできるようになった。私が慣れただけなのか、近すぎた距離感が適切になったからか、会話のたびに苛立つこともなくなった。その代わり、部活が終わって男友達と合流した時の、大げさな笑い方の嘘くささが、なんとなく目につくようになった。

 一年生の終わり。夏に出した絵画コンクールの作品で、永野は金賞をとった。私は佳作だった。

 そして永野は、二年生のはじめに部活をやめた。

 誰にも何も言わず、彼の姿は唐突に美術室からなくなった。

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青い炎が爆ぜた 澄田ゆきこ @lakesnow

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