青い炎が爆ぜた

澄田ゆきこ

1、

 人の絵を見て「怖い」と思ったのは、あれが初めてだった。

 小学校六年生の頃だった。夏休みの宿題だった読書感想画が県のコンクールで銀賞をとり、親に連れられて展示会に行った時。私は「亀田惟」という名前を探しながら、貼り出されている絵を目でなぞっていた。「どれも上手ねえ」とはしゃぐ母の横で私はずっと黙っていた。この絵は下描きに力を入れすぎて色が濁ってる。この絵は筆遣いが雑すぎる。この絵は遠近法がちぐはぐ。この絵は余白が悪目立ちしてる。どの絵も一目見て一瞬で興味を失う類のものだった。どの絵にも共通しているのは、先生や審査員たちにウケそうな「小学生らしさ」があることだった。元気、無邪気、明るさ、豊かな想像力。そういうのにうんざりするくらいには、当時の私はたぶん早熟で、いやな子どもだった。

「あ、あったよ、惟!」

 母が嬉しそうな声をあげる。顔をあげると、まずネームプレートが目に入った。油性マジックで書いた「亀田惟」の文字の横に、銀色の花形のシールが貼られている。

「惟の絵は目を引くねえ」と母は言ったが、それは「目を引く」というよりも「浮いている」に近い気がした。

 私の絵は原爆ドームを書いたものだった。テーマにしたのは戦時中の広島の小学生をモデルにした小説で、この絵を描くために、父に頼んでわざわざ広島まで連れて行ってもらった。本当なら原爆資料館にも入りたかったが、母が「やだ、怖い」と駄々をこねたため、私たちは外から建物を眺めるに終わった。

 私は本当のことが描きたかった。モチーフにするのは物語で、あくまで作り物だけれど、その中には確かに「本当のこと」を写し取った部分がある。私はそれを表現したかった。だからこの目で実物を確かめたかったし、なるべく正確に画用紙に落とし込みたかった。父のカメラで写真を撮らせてもらい、現像したものを模写するように下描きをし、色を塗った。写真を撮った日は曇り空だったから、画面全体が煤けた色をしていた。ちかちかするほど彩度が高い絵ばかりの中では、目立つのは当然ともいえる。

「本当、惟は絵が上手よねえ。写真みたいじゃない」

 そりゃ、写真をそのまま描いただけだし。と、思ったけれど、口には出さない。その代わり、「お母さん、私、あっちも見に行きたい」と最奥の方を指さした。私が勝てなかった絵がどんなものなのか見てみたかった。母は「ええ~? お母さんもう帰りたいんだけど」と不満げだったが、原爆資料館ほどのおどろおどろしさはないからか、母は黙って私のあとをついて来た。

 奥には金賞作品の展示エリアがあった。学年ごとにひとつずつ作品が飾られている。さすがに銀賞までとはレベルが違うな、と思いながら作品を眺めていたら、ある作品の前で私は動けなくなった。

 まず目に飛び込んできたのは、夜空だった。闇の色の中に、光る砂を散りばめたように星々が輝いている。光の強いもの、弱いもの、青白いもの、赤みがかっているもの。どれも「星」なのに表情が違う。画面を横切るように薄くかかった天の川は、淡く塗られているのでもなく、これも驚くほど細かい粒子がそう見せているのだった。空の深い紺色も、場所によって濃淡や色合いが微妙に違う。よく目を凝らしてみると、赤や黄や紫や緑といった色が、紺色の主張を崩さない程度にさりげなく滲んでいる。普通は夜空に使わない色が混ぜ込まれているのに、色は濁るのではなくむしろ澄んでいた。

 複雑な色遣いの星空とは対照的に、画面下部に描かれた草原と少年の影は、黒一色で塗られていた。黒をきれいに均一に塗るのはすごく難しいのに、その黒は全くムラがない。

 絵は私の頭よりずいぶん高い位置に貼られていたから、その絵を見上げている時の私は、まるでこの少年と一緒に星空を見上げているみたいだった。私は足がすくんでいた。軽いめまいさえ覚えていた。

 複雑なのに明瞭で、強烈なのに繊細で、幻想的なのにその中には確かに「本当」があって、涙が出そうなほどきれいなのに、息が止まりそうなほど怖かった。

「すごいねえ、これ。六年生とはいえ、小学生が描いたとは思えないね」

 母が横で呟く。私は返事すらできず、夜空の向こうにある広大な宇宙に目を奪われ続けていた。

 敗北感が私を支配していた。そして気づいてしまった。ただ原爆ドームを描いただけの私の絵は、題材を別の似た本とすげかえても、ジャンルを読書感想画から風景画にうつしても成立してしまう。しかも、これはどこまでいっても写真の拡大コピーにしかならない。もはや絵である必要すらないのだ。だけど、目の前のこの絵は違った。ちゃんと物語があったし、絵にしかできない表現があった。

 この時はまだ「怖い」としか言いようがなかったこの感覚は、大人になった今ならもう少しうまく説明できる。あれは畏怖であり、同時に価値観を破壊される恐怖でもあった。自分と同い年の子が、自分と変わらない絵の具セットと画用紙で、こんな絵を描けると知った。自分が唯一無二の正解だと信じて疑わなかったものが、決してそうではないと知った。自分の慢心とも言える自信が、自分の半径五メートルだけで形成されたちっぽけなものだったと知った。突然眼前に現れた果てしなく広い世界を前に、私は不安を抱きながら立ち尽くすしかなかった。

「惟?」

 母の声で我に返る。

「顔色悪いけど、大丈夫?」

 うん、と私はどうにか頷く。

 私はもう一度だけ絵の方を見た。先ほどのような視界のぐらつく感覚はなくなっていたが、その絵はやっぱり嘘みたいに美しかった。

 その絵のことは今でも鮮明に覚えている。絵の下、ネームプレートの横に張り付けられていた金色のシールも、枠いっぱいに書かれた「永野慶太」という角ばった文字も。


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