第9夜③

「うきゃあっ!」


 噂をしていた張本人との思いもかけない遭遇に驚いて、奇声を上げて飛び上がった沙那は、次の瞬間、走り出した。

 どたどたと廊の床板を踏みしめて足音を鳴らす走り方は『見苦しい』という言葉では到底表現しきれないほどに見苦しいだろうが、今は格好になど構っていられない。


「沙那っ! どうして逃げる!」


(あなたに合わせる顔が無いからよ!)


 背後からは寛高の問いかけと、追う足音とが聞こえてくる。

 それにしても、男性の衣装とは、きっとさぞかし動きやすいのだろう。だって、沙那の耳によれば、彼の足さばきに従う衣擦れの音とともに、足音は徐々に大きく、徐々に近くに、迫ってきているのだから。

 着たまま走ることなど全く想定されていない小袿姿の沙那とでは、勝負にもならず、捕まってしまうのも時間の問題だ。


「ひゃっ!」

「捕まえた」


 そして、想像通りに、程なくして寛高に追いつかれた沙那は、空いている部屋へと押し込められた。

 考えてみれば、今の後宮のうちに帝の妃は『承香殿の女御』ただ一人しかいないから、承香殿以外の殿舎は使われず、がらがらに空いている。だからこうしていきなり部屋に入っても問題にならないのだろうな、と沙那の思考は現実逃避に逸れた。


「沙那?」

「なっ、何をするんですかっ、いきなりっ!」

「いきなりじゃないだろう、俺が呼び止めたのに逃げるからだ」

「それは……っ、私は、主上に、用などありませんし……」

「『寛高さま』だろう?」

「……っ」


 確かに沙那は彼のことを日頃そう呼んできたけれど、今、この状況で、呼び方を正されたのはどういう意味合いだろう。いや、意味など無いのだろう。いつもと違うように『主上』と呼ばれた彼が、単に訝しんだだけだ。きっと、そうだ!

 無理やりに楽観的に考えようとする沙那を、寛高は壁際に追い込んで、沙那の顔の横に手を突いて、ゆっくりと告げた。


「沙那。さっきの言葉を、もう一度言ってくれ」

「きっ、聞こえなかったなら、気にしなくていいんですよ? 本当に、全っ然、大した話ではないので……」

「いや、しっかり聞こえていたから、もう一度聞きたいんだが。『寛高さまを譲りたくない』と、沙那の口から、直接に言われたい」

「しっかり聞こえていたなら、もういいじゃないですかっ!」


 やっぱり、ばっちりと聞かれていたらしい。

 どうしよう、寛高に知られてしまった。沙那が、彼を愛してしまったこと。紗子の居場所を奪おうとするような、身勝手で欲深な女であること。彼に嫌われても仕方のない、どうしようもない人間であること――絶望した沙那の瞳からは、大粒の涙が一粒、ぽろりと零れた。


「ひぐっ」

「泣いっ!? どうした、沙那、どうして泣く!?」


 一度、涙の堰が決壊してしまうと、もう駄目だった。

 止まらなくなった涙のせいで、息もしづらくなり、つっかえながら話す言葉は、半分だって彼の元まで届いているのか分からない。いや、こんな聞き苦しい言葉は、いっそ、全く彼に届かない方が良いのかもしれない。分からない、自分がどうすればいいか。

 ひっくひっくとしゃくり上げた沙那は、寛高を上目遣いに睨みつけた。


「そんなにっ、からかわなくたって、いいでしょう? 私たち、今まで、そこそこ仲良くしていたじゃないですか……どうしてっ、急に、意地悪を言うの?」


 涙に濡れた瞳で睨んでも、迫力なんてものは微塵も無かったはずだが、何故か、それを見た寛高は息を呑んで、僅かに身を退かせた。あまりにも沙那が哀れに見えたせいで、追いつめるのも気が引けたからだろうか。

 哀れだと思うなら、放っておいてくれればいいのに。元から彼に向けて発した言葉ではないのだから、聞かなかったふりをして、いつも通りに接してくれればいい。それは沙那にとって都合のいい高望みをしすぎているとしても、どうせ、紗子の『身代わり』が終わった今、沙那と寛高とは接点も無くなるのだから、自然と縁が切れるのを、あとほんの少しの時間だけ待ってくれればいいだけじゃないか。

 どうして、寛高はわざわざ沙那の傷口を穿ろうとするのだろう。

 先程の発言ひとつだけで、沙那に失望しきって、それほど沙那が嫌いになったか、あるいは、最初から、暇つぶしに弄り潰して構わない程度の取るに足らない存在だとしか思われていなかったのか――後ろ向きな思考に、沙那がどっぷりと嵌まりかけたその時、寛高は、堪えかねたように叫んだ。


「悪かった! 意地悪のつもりはなくてだな、つまり……ああ、もうっ!」


 俯いて下を向いていた顎を捉えて、ぐいと持ち上げられる。

 驚きに見開いた沙那の瞳には、寛高の顔が大きく映り込み、やがて再び遠ざかっていった。唇には淡く、彼の温度を残しながら。


「好きだ。愛している、沙那」

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