第9夜②

 ――あなたは、寛高さまのことが好きでしょう?


 意味を取り違えようもないほどにまっすぐな言葉で尋ねられると、知らん顔でとぼけてごまかすことすらできなかった。

 煩悶した沙那は、しばらく黙り込んだ後に、蚊の鳴くような声で答えた。


「……好きよ」


 分かっていたけれど。寛高が、従妹の夫だということは最初から分かっていた。

 紗子が帰ってきたら、『承香殿の女御』の場所は、紗子に返さなくてはならないこともちゃんと分かっていたはずなのに――それでも、沙那は、寛高のことを好きになってしまった。


「ごめんなさい、紗子。私、あなたのことを裏切った。軽蔑してくれていいわ、あなたの夫のことを好きになったの」


 最初は確かに『紗子のために』と動いていたつもりだったのに。いつのまにか、目的はすり替わっていた。一瞬ではあっても『紗子が帰って来なければ、寛高の傍にいられるのに』と想像してしまった事実は消せない。

 これは、紗子への裏切りでしかない。同時に、沙那のことを協力者として信頼してくれていた寛高に対する裏切りでもある。

 邪悪な企みを持っていた自分が、どの面下げて二人に向き合えばいいのかと、うなだれて俯いた沙那に、紗子はさらに鋭い言葉の刃を突き刺してきた。


「沙那は、主上のことが好きなんでしょう? 私が、後宮に戻るか否かは、沙那にとっても関係があることじゃない。どうして、沙那は『我関せず』みたいな態度を取るの?」

「……私が、寛高さまのことをお慕いしていたとして、それとこれとは何も関係ないわ。私が勝手に想っているだけ、横恋慕しているだけだもの」

「まだ、そんなことを……じゃあ、私に返してくれる?」

「え?」


 紗子は、ずいと右手の掌を、沙那の目の前に突き出してきた。まるで、『お腹が空いた』と菓子をねだる無邪気な子どものような動作だ。

 困惑する沙那の前で、紗子は美しく微笑んで言った。


「ねえ、返して?」

「『返す』って……」

「寛高さまを私に返して。沙那が言ったんでしょう、寛高さまは、今でも私の夫なんだって。私が誠心誠意頭を下げて、事情を説明して、『女御の位に戻してください』と言ったら、寛高さまは許してくださると思うの。私たち、とても仲が良いもの」

「それは、そうかもしれないけれど……あなたには、良直さんがいるじゃない!」


 まさか、紗子は、良直と寛高とで二股をかけるつもりなのだろうか。

 つい先程まで『寛高とのけじめをつける』と言っていたのに、どうして急に気分を変えて、不誠実なことを言い出すのかと咎めると、紗子は、突き出したままの右手をひらひらと振って見せてきた。


「それはそれ、これはこれよ」


 ――寛高には、『夫』のままでいてもらう。自由な恋愛は、良直を相手にする。


 紗子の提案は、あまりにも寛高の気持ちを蔑ろにしたものだった。

 それは、まるで『帝の妃という地位には価値があるから手放したくないけれど、それ以外の寛高には価値が無い』と言っているようなものではないか。


「紗子、そんな勝手なことは許されないわ!」

「そう? そんなに勝手かしら? 寛高さまは今まで『それでいい』と仰っていたのよ、今まで通りに接したからといって、ご機嫌を損ねるなんて、とても思えないけれど」

「紗子はっ、寛高さまのことを好きじゃないでしょうっ!? そんなの、不毛だわ!」

「あら、私は、寛高さまに恋心はあげられないけれど、彼のことも嫌いじゃないわよ? むしろ、他の男の人と比べれば、ずっと大好きと言ってもいいわ。良直の次くらいにはね」

「でもっ、寛高さまのお気持ちもあるでしょうし」

「寛高さまが『いい』と言えば、いいのね?」


 念を押すように紗子に言われて、とっさに反論できなかった。

 確かに、沙那が紗子を止める理由が『寛高が可哀想だから』だとしたら、彼自身が『その扱いで構わない』と言っているのに、どうして口出しできるだろう。

 沙那は、寛高にとって、何でもない。彼の決定に口を挟むのにふさわしい資格なんて、何ひとつ持ち合わせていないのに。ましてや、沙那が『私が気に食わないからやめてくれ』なんて理屈の通らないわがままを伝えたら、寛高にもなんと身勝手な女だと呆れられるだろう。鬱陶しい口出しをしたことを疎まれて、もう、傍に置いてくれなくなるかもしれない。

 だって、元々、沙那は彼に近づけるような身分も、家柄も、関係も、何ひとつ持っていなかったのだから。今、沙那がたまたま彼の近くにいられるのは全部、紗子が持っていた物を、勝手に拝借していただけで。


「応援してくれてありがとう、沙那。さっそく、寛高さまに話してくるわね」

「あ……」


 答えない沙那を見て『了承した』と解したらしい紗子は、くるりと踵を返して後涼殿の方を向くと、ゆっくりと一歩を踏み出した。


「っ、やっぱり、嫌っ! 紗子は、寛高さまに近づかないでっ!」


 唇から零れ落ちた声は、まるで悲鳴のようだった。

 どうにかして紗子を引き留めたくて、切羽詰まってうわずった聞きづらい声。その声で、沙那は必死に言い募った。


「寛高さまは、どう言うか分からない。『良直の次の、二番目の男でいいから、紗子が傍にいてくれた方が嬉しい』って言うかもしれないけれどっ、私が嫌なの!」


 沙那には、こんなことを願っていい資格はない。

 それでも、どうしても嫌だった。絶対に譲りたくなかった。

 彼が、元から、沙那のものではないとしても――。


「お願いっ、寛高さまを取らないでっ! 私は、寛高さまを譲りたくない!」


 ――それでも、偶然にでも、彼の傍にいる座を手に入れてしまったのだから、元の持ち主にだって、それを返したくなかった。


 こんな身勝手なわがままが許されるはずはない。罵倒は甘んじて受けようと、おそるおそる紗子の顔を見返すと、彼女は少なくとも面に表れた範囲では、ちっとも怒っていなかった。否、いっそ――


「……だ、そうですわ? 主上?」

「へっ」


 紗子が軽やかに呼びかけた先、視線の先に、彼はいた。


「――、今のは、どういう意味だ?」


 呆気に取られたような顔で、沙那を追いつめる一言を口にして。



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