第9夜①
「沙那が気づいてくれてよかったわぁ」
女御の傍に仕えるには到底ふさわしくない軽装の女は、ゆったりと脇息にもたれ、慣れた手つきで間食の干し棗を口に運んでいた。やけに堂々とした貫禄があるのも、この部屋は、元々彼女の――紗子自身のものなのだから、その姿勢も当然か。
久しぶりに見た従妹は、どれほど憔悴していることかと心配していたけれど、いつも以上に健やかそうだ。眉間の皺もなく、表情も晴れ晴れとして美しい。悩みの種であった父親が、主上に睨まれて、謹慎を余儀なくされているからだろう。
沙那は、安堵と呆れが半分ずつ混じった息を吐いた。
「何を呑気なことを言っているの」
「だって、雑仕女の仕事自体は苦じゃなかったのだけれど、これはこれで、身分が低すぎて、家司の良直には見合わないもの。そろそろ正体を明かして、元の身分に戻るきっかけは欲しかったのよ」
「また、勝手なことを言うわね……」
紗子は、寛高から拒絶された後、身の振り方を考えたのだという。そして、『承香殿の女御』という人間が存在する限り、左大臣が野望を諦めることはない、父に諦めさせるには『承香殿の女御』を消し去るしかないと結論づけたのだそうだ。
わざとらしく、深い悲しみに沈む歌を部屋に書き残したのは、捜索する者の脳裏に『女御は悲しみのあまり死を選んだのではないか』という可能性をちらつかせれば、追っ手をかけるのも早々に打ち切られて、より逃げきりやすくなると踏んだから。
紗子は『承香殿の女御』の名前は捨てて、親も家も無いただの『紗子』として生きていこう、そうやって独りで良直との子を育てよう、と意気込んでいたが、内裏を出てしばらく経って、懐妊が誤診だったと発覚した。左大臣の手の者は『妊婦』を探しているだろうから、これで見つかりにくくなった、これ幸いと、紗子は左大臣邸に乗り込んだ。……何度聞いても、度胸がありすぎて危なっかしく、背筋が凍る経緯である。
「私のせいで、姫様に、ご苦労をおかけするなんて」
沙那の前で恐縮しきって肩を落としている青年が、紗子の想い人の大江良直だ。
彼は左大臣邸に幽閉されていたが、主上の命令で左大臣邸内の呪具が捜索された際に保護されて、今は典薬寮で世話になっているそうだ。
いかにも人の良さそうな顔をした彼は、左大臣にも悩まされていたようだが、紗子との関係も、彼女に押される一方のようである。紗子は『申し訳ない』と頭を下げている良直の隣にぴとりと寄り添って、彼の腕をそっと掴んだ。
「んもう、私は『苦ではなかった』と言ったでしょう?」
「姫様……」
「雑仕女として、あなたの仕事ぶりを見るのは、なかなか楽しかったわよ。本当よ? 好きな殿方の真剣な顔なんて見たら、また惚れ直しちゃうわ」
「姫様っ!」
掴んだ腕をにぎにぎと揉まれ、頬を指先で突かれると、良直は真っ赤になってしまった。……なるほど、紗子は普段、彼のことをからかってばかりいるようだ。
確かにこれだけ素直に応じてくれる相手ならば、からかいたくなるのも分かるけれど、その甘ったるいじゃれ合いを見せつけられる側は、ちっとも面白くもなく、いたたまれない気持ちにしかならないわけで。
「……それ、ここでやらなくてもいいんじゃないかしら」
げんなりとした沙那が、低い声で『いちゃつくのは人前では避けなさい』と警告すると、紗子は良直の腕に自らの腕を絡めて張りついた。
「あら、そうね。じゃあ、良直、帰りましょうか。私たちの愛の巣に」
「ひっ、姫様、そんな、はしたない……っ!」
「こういう私は嫌い?」
「いえ、大好きです!」
「じゃあ、いいじゃない」
「そっ、そうですね……」
「待ちなさいっ! 良いわけないでしょうがっ!」
なぜ『いちゃつくのは人前では避けなさい』という注意を『他所に行っていちゃついてきなさい』という意味だと受け取るのか。
まだ話が終わっていないと引き留めれば、紗子は不満そうに頬を膨らませた。事態の元凶であるにもかかわらず、全く悪びれないところは、確かに左大臣に似ているかもしれないと思ってしまった。
「沙那。まだ、何かあるの?」
「あるわよ! あなたがたが想い合っているのは分かったわ。それについて、私が責めるつもりはない。ただ、寛高さまのお気持ちはどうなるの。紗子は、仮にも寛高さまの妃なのだから、筋は通すべきでしょう」
「あらぁ、でも、寛高さまがお好きなのは……」
「こればっかりは、あなたに反論の余地は無いわ! 口ごたえしないのっ! 返事はっ!?」
「はあい。それで沙那が満足するならいいわよ」
渋々といった風情を隠しもせずに立ち上がった紗子は、良直には『また後でね』と甘ったるい声をかけると、沙那を先導して後涼殿への廊を進んだ。どうやら、早々に寛高との関係を清算するつもりはあるらしい。……それはそれで、紗子にとっては、惜しむそぶりすら見せないほどの『脈無し』ということだから、寛高が可哀想な気もするけれど。
「寛高さまも、あなたに伝えたいことが……きっと、たくさんあるはずだから、せめて、聞くくらいはしてあげて」
どのみち振られるとはしても、想いを告げさえしないうちに『あなたは脈無しです』と突きつけられるのは、あまりに容赦が無さすぎる。
せめて、彼が長年の想いを告白するくらいの時間は与えてから、優しく振ってあげてくれないか、という配慮を込めて頼み込むと、紗子はぴたりと歩みを止めた。
「紗子?」
「ねえ、沙那はそれでいいの?」
じっとまっすぐな視線が、沙那を向く。紗子の黒目がちな瞳に、心の奥底まで見透かされそうな気がした。
「私?……私は、関係ないでしょう」
怯んだ自分を隠すように、あえてそっけなく告げた沙那の心の隙を、紗子は見逃してはくれなかった。
「どうして? 関係はあるわ。沙那は、寛高さまのことが好きなのでしょう?」
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