第8夜④

「あなたは、紗子から『居場所』を奪った」


 紗子が好きな人と過ごす時間を奪い、彼女が親愛を抱いていた夫にも頼ることができなくさせた。

 沙那の愛する従妹をひどい目に遭わせておきながら、なぜ、沙那が左大臣の言いなりに動いてやると思うのか。全力で反発するに決まっているだろう。


「あなたには、主上から罰が下るわ」

「どうやって? 証拠は何も無いというのに」


 底知れぬ笑みを浮かべた左大臣は、沙那の弱みを鋭く指摘した。

 そう、沙那が語った『紗子の失踪の動機』や『左大臣の企み』には目に見える証拠が無い。左大臣が口先では認めたとしても、後で言を翻されれば終わりだ。


「小姫は、想像が豊かだね。物語でも書けばいい」

「これは、事実よ」

「誰がそれを信じる?」


 承香殿の女御は香を盗まれた。承香殿の女御は呪われた。――その事実から『これは左大臣の仕業だ』と結論付ける者は多くないだろう。紗子の失踪の事実と、左大臣の人となりを知らない限りは。

 だが、紗子が失踪したことを明らかにすれば、必ずその動機にも人々の好奇の目が向けられるだろう。紗子が内裏に戻ることもできなくなってしまう。

 沙那には、紗子の居場所を奪うような真似はできない。紗子のためを思えば口を噤むしかないのだと、左大臣も分かっている。だからこそ、彼は、この期に及んで優位を崩さずにいられるのだろう。


(もしも、『証拠』があるとしたら――)


「証拠は無いだろう? だって、紗子は見つからなかったのだから」


 畳みかけるように、左大臣が言う。

 彼も沙那も分かっていた。左大臣の企みを裏付けるためには、『証人』が必要だ。

 だが、左大臣家に幽閉されている良直からも、良直を人質に取られている左近からも、左大臣に不利な証言は期待できない。

 関係者のうち、残るは、紗子だけ。消えた張本人から話を聞かない限りは、沙那の推理は『想像』で終わってしまう。


(そう、それが最大の弱みだった。けれど、私には寛高さまがついている)


 沙那は、袂に隠し持った彼からの文をぎゅっと握り締めた。

 彼のことは信じている。だからきっと、左大臣の牙城も突き崩せるはずだ。


「証拠なら、あるわ」

「……何だって?」

「手がかりは、小父さまが好んで選ぶ手段よ。小父さまは、自分が最も疑われない状況を作り出してから、香を盗み出させたり、呪詛を仕込んだりした。用意周到に、『まさか左大臣がそんなことをするはずがないだろう』と思われる場を整えた」


 用心深い古狸は、政敵を陥れるために手を尽くした。その方法は、人々が考える『容疑者』の中からいち早く抜け出すというものだった。


「紗子は、あなたのそのやり口を知っていた。娘として、傍で見てきたのだもの。だから、あなたの考えの裏をかいた」


 その周到さは、確かに紗子が父である左大臣を見て覚えたもので、左大臣に似ていて、そこに寛高は嫌悪感を抱いたのかもしれない。けれど、紗子は、その手段を、他人を陥れるためではなく、自分の身を守るために使ったのだ。


「紗子は、小父さまと同じように考えた。『左大臣と折り合いの悪い娘の紗子なら、絶対に近づかないであろう場所』に隠れたのよ」


 寛高は言っていた。もしも紗子が、左大臣邸やゆかりの寺社などに隠れていたのなら、左大臣は必ず紗子の居場所を突き止めて、彼女の気持ちなんて意にも介さずに後宮に送り返しただろう、と。

 寛高の推測は正しい。きっと、左大臣はそうしただろう。心当たりの場所を真っ先に探した上で、紗子が見つからなかったから、彼は捜索を打ち切って、『身代わり』を用意する方針に転じた。


 ――だが、その動きを、紗子が事前に読み切っていたとしたら?


「一度、徹底的に探して『紗子はいない』と結論づけた場所を、小父さまはそれ以上熱心に探し続けるかしら? 普通に考えれば、のだから、なおさらよ」

「まさか……」

「答えは『否』よ。つまり、最初の捜索さえ乗り切ってしまえば、左大臣邸ほど捜索の目が緩む場所は他にない。そして、小父さまも、さすがに女房を新しく採用するときには厳しく身元を調べたでしょうけれど、雑色や雑仕女ぞうしめが一人二人増えたって、気づきもしない。まして、その娘が確かな推薦状を持っているなら、疑うきっかけすら生じないでしょうね」


 推薦状は、例えば『この娘は承香殿で下働きをしていた』という内容を、左近や承香殿の女御本人が保証するものだったかもしれない。他に疑わしいものはいくらでもいるというのに、あえてその娘を疑う気にもなれないだろう。


「――お父さま」


 がらりと御簾を持ち上げて、入ってきた影は若い女。その傍らに控えるように、直衣姿の男も見える。

 女は黒髪を背中のあたりでふつりと断って、緩く結わえてまとめていた。髪はまっすぐに伸びてはいるものの、土埃に塗れて艶を失い、ところどころにほつれも垣間見られて、身分の低いごくありふれた下働きの娘に見える。――誰も、この姿を見て『女御』だとは思うまい。


「新しく入った雑仕女を尋ねれば『すず』という娘がいると、すぐに知れたぞ」

「ありがとう」


 首尾よく紗子を見つけ出して連れてきた寛高に礼を述べれば、彼は『礼なら後でもらう』と述べた。はてさて、何を請求されるというのか。


(私は何も持っていないし、寛高さまが私に望むものなんて、何もないでしょうに。……ようやく、『本物』の紗子が帰ってきたんだもの)


 微かな疑念を覚えつつも、沙那は、目の前にへたり込んでいる左大臣に向かって、重々しく告げた。


「小父さま、あなたの悪だくみの負けよ」

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