第8夜③
この男は、人の心を何だと思っているのだろう。
心から愛し合う人がいるのに他の人に嫁がされた紗子も、それを左大臣家から見ているしかなかった良直も、可哀想だ。
(あとは、うっかり、紗子のことを好きになってしまった寛高さまも)
自分の妃になった人には既に想い人がいて、叶わぬ片想いを強いられるなんて、彼は彼で哀れである。そうは言っても、沙那の気持ちとしては、ここは紗子の気持ちを慮って、寛高には身を引いていただきたいところだけれども。
「好いた相手と引き離されないだけ、感謝してほしいくらいだ。それで満足していればいいのに、二人が軽率な行動に出たものだから」
「……紗子が、良直さんの子どもを身ごもったことを言っているの?」
「ああ、軽率だろう?」
同意を求めるように肩をすくめてみせられても、全く共感できなかった。
左近が可哀想なくらいに恐縮しきっていたのは、息子が主家の姫君でもある女御に恋い焦がれるだけではなく、彼女が入内した後に結ばれてしまったから。
紗子にしてみれば、里下がりのときに想い人との短い逢瀬を果たした後で、窮屈で味方のいない冷たい後宮に戻ることになるのだ。良直は良直で、その彼女を黙って見送らねばならない。二人の心が揺れて、うっかり過ちを犯してしまったとしても、同情してしまう。
内裏に戻ってから体調が優れず、妊娠に思い当たり、取り返しのつかないことをしてしまったと青ざめる紗子に、左大臣は言ったという。
「黙っていれば、誰の子かなんて分からないのにね。紗子は馬鹿正直に慌てていてね。私は、娘を思って助言したんだ。『その子を、主上の子ということにしてしまえばいい。左大臣邸の良直も紗子と子どものことを心配しているよ』とね」
「よくも……っ! それは『帝の血筋を絶やしてしまっても構わないから主上の子だと言い張れ。命令に従わないなら良直に危害を加える』って脅しじゃないっ!」
「そうとも言うね」
軽やかに笑う左大臣は、微塵も罪悪感を抱いていないらしい。
父の言葉に追いつめられた紗子は、一縷の望みにかけて、寛高に迫り――そんな切実な事情を知るわけもない彼に拒絶されて、その夜、内裏から消えた。
それは、消えてしまいたくもなるだろう。
夫である寛高の誇りを守るためには、想い人である良直の命を救うためには、自分が消えることによって、左大臣の魔の手を阻むしかないと思い詰めたのではないか。
「紗子がいなくなったんじゃあ、仕方がない。私は、紗子の代わりに小姫を内裏に招いて、主上の御心が移るのを待った。どれだけ愛した寵姫だろうと、会えない女を恋慕っていても仕方がない。結果は、私の想像通りだったね」
「……それは、どうも」
どうやら、左大臣は、沙那と寛高が『良い仲』だと誤解しているらしい。
『主上はどうせすぐに心変わりをすると思っていた』という言には反論したいが、余計なことを知らせて、彼の悪だくみの材料にされてはたまらない。
沙那が黙って聞いていると、左大臣は上機嫌で『主上の興味が向くように手を尽くした甲斐があった』と自画自賛を始めた。どうやら、例の香や呪詛のことのようだ。
「ええ、小父さまは、本当に、陰に日向に手助けをしてくださいましたね。私は頼んでもいないというのに。香を盗ませたのも、呪詛を仕込ませたのも、全部、小父さまの自作自演でしょう。相変わらず、他人のことを道具みたいに使った悪だくみがお得意なのね」
「おや、気づいていたのかい」
「ええ。あなたに忠実に仕えている左近が、右大臣派の内通者だったと知って、彼女があなたの命令でわざと内通している可能性を考えたわ」
「ほう?」
「左近から『床下に呪詛を仕掛けることを右大臣に頼まれた』と聞いたときも、おかしいと思った。承香殿の庭に入り込んで香を掘り起こすこともできた右大臣の手勢なら、わざわざ左近に仕込みを任せなくても、手勢で呪詛の道具を仕掛けることはできるでしょう。左近は、わざと大げさに動いたんじゃないかって」
左近には左大臣を裏切って右大臣派につく動機など無い。それなのに、内通者の役目を果たしていたのは、彼女が忠誠を捧げる主人であり、かつ、息子が過ちを犯した手前、逆らうこともできなくなった左大臣から命じられたから。――そう考えると、辻褄が合った。
「あなたは、左近を脅し、右大臣派に潜り込ませる間諜に仕立て上げた。――『右大臣派に与した内通者が帝の寵姫に危害を加えた』という『右大臣派の弱み』を捏造するために」
当然のことながら、呪詛の件が明らかになれば、実行犯である左近が処罰されることは避けられない。左近は、左大臣に切り捨てられて『右大臣派の内通者』として罰せられる未来にも気づいていたが、息子の身柄を左大臣家に留められている以上、逆らうことはできなかった。
良直を紗子にとっても左近にとっても人質として使うなんて、一石二鳥を狙う左大臣らしい策だ。
「『呪詛』という手段を選んだところも小父さまらしいわ。私は、呪いなんて信じていないから、呪われたって元気にぴんぴんしているけれど、『呪詛』の恐ろしさは他にある」
寛高は『呪詛を仕掛けられるほど身近に、悪意を持った者を近づけていること自体が恐ろしいのだ』と言った。その者が呪詛の道具を仕込むなんて迂遠な方法ではなくて、付け火や刃物などの直接的な危害を加える方針に舵を切るかもしれないから、と。
彼の意見は一理はあるが、それもまだ、『呪詛を仕掛ける者は恐ろしい』という視点に留まっている。
左大臣が企んでいたのは、もっとずっと邪悪な計画だった。
「呪詛はね、『あいつが呪詛をした』と政敵を陥れる讒言に用いられることが怖いのよ。だって、『承香殿の女御が呪詛された』ということが明らかになって、噂が広まったとき、女御の父親であるあなたのことだけは、誰も疑わないのだもの。たとえ、女御と父親との仲がどれほど冷えきっていたとしてもね」
――香合わせに使う香を盗まれた。
――殿舎の床下に呪詛を仕掛けられた。
承香殿の女御が受けた『被害』のことを聞いた者は、必ず『右大臣派の犯行だ』と考える。左大臣は、自らは絶対に疑われない立場から微動だにせず、弱みを握った女房を手足として使って、政敵の『罪状』を積み上げた。
「右大臣が、もっと景気よく失態を演じてくれれば、仕掛ける必要もなかったのにね。『香を盗む』なんてちゃちな悪さしか企まないものだから、こちらから、左近を通じてお膳立てしてやらねばならなかった。やれ、世話が焼ける」
けろりと悪びれもせずに自分の行いを認めた左大臣に、沙那は念を押して尋ねた。
「だから、あなたは、右大臣に『呪詛』の罪を被せたと?」
「そう、それだよ。そこまで気づいていたなら、どうして小姫は、呪詛を見つけたときに大騒ぎしなかったんだい? それとも主上と二人きりになったときに『呪詛が怖いの』と縋るのには使ったのかな?」
君にとっても利のある話だろう。自分の地位を揺るがしかねない競争相手は、一人でも少ない方がいい。どうして蹴落とさなかったのか。――本心から『理解できない』と思っていそうな顔で尋ねてくる左大臣に、沙那は首を振って答える。
「いいえ。私は、主上には『全て左大臣がやった自作自演だ』とお伝えしました」
「なぜ?」
「だって、私は小父さまの味方じゃないもの。私は、紗子の味方よ!」
いきり立ち、訣別を宣言した沙那を、左大臣は眉ひとつ動かさずに見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます