第8夜②

「『呪う』だなんて、物騒なことを言うね」


 突拍子もないことを言われても、怒るでも訝しむでもなく、窘める余裕さえある彼が空恐ろしかった。まるで、彼の方がかのように思えてくるから。


「私が可愛い娘を呪うわけがないじゃないか」

「ごまかさないで」


 沙那が睨みつけると、左大臣は口元を袖で隠した。流石に笑っていていい局面でないことくらいは分かるらしい。


「ああ、もしかして……主上の寵愛が紗子から小姫に移ることを私が恐れて、小姫を呪詛しないかと心配したのかな? それは安心してほしい、小姫のことは実の娘と同じように思っているのだからね」

「実の娘がそうであるように、あなたにとって、都合のいい道具として?」


 さも、自分が『娘を可愛がっている親』であるかのように言うじゃないか。

 左大臣の紗子に対する接し方を知っている沙那が、今更、そんな薄っぺらい言葉で心を安らげるはずもないだろう。


「そうね。仮に、主上が私を愛したとして、あなたは、本心から祝福するのでしょうね。あなたにとっては、自身を帝の外戚に押し上げてくれるための道具が、実の娘だろうと、左大臣に逆らえない参議の娘だろうと、どちらでも変わらないのだもの。……いいえ、紗子よりも私の方が都合は良かったのかしら」


 今なら分かる。左大臣が沙那を『身代わり』として宮仕えに誘った理由も、紗子のことを真剣に探そうとしなかった理由も。

 彼は、沙那のことを有益な道具だと考えたのだ。これまでずっと従順だった実の娘よりも。


「――だって、紗子は初めてあなたに逆らったから。誰もが羨む女御の地位を手に入れておきながら、身分の低い家司の青年と恋に落ちた」


『お許しくださいっ! 分不相応にも、姫様にのぼせ上がった愚かな男ですが、あれでも私にとっては、ただ一人の子なのです!』


 床に這いつくばるほど深く、頭を下げる左近の姿を思い起こす。

 宮中の噂は遠慮なく書き送ってきていたくせに、『あの人って素敵ね』という世間話程度の恋心さえ覗かせなかった紗子を思い起こす。

 彼女たちは知っていたのだ。帝の妃は他の人間に恋などしてはならないし、その人間が恋心に応えることもあってはならない。だから、用心深く秘密を守り、その恋がよそに漏れないように気をつけていた。

 ところが、それを知らされた左大臣には、ちっとも驚いた様子は無かった。とっくに知っていたのだろう。それどころか、暇を持て余したように気だるげに、首のあたりをぽりぽりと掻いている。


「うーん、最近になって『恋に落ちた』と言われると、少し違うね。紗子が、良直のことを好いていたのは、ずっと前からだよ。彼は良い青年だから、理解はできるけれどね」

「は……?」


 何を言っているのか、この男は。

 呆然とする沙那の前で、彼はぺらぺらと言葉を並べ立てた。


「ずっと前から、知っていたの……?」

「ああ。東宮妃になる娘の近くに、若い男子を置いて、万が一の間違いがあったら困るから、もちろん注意は払っていたけれど。ただ、良直ならめったな真似をしでかすことはないだろうし、安心して放っておけたかな」

「ちょっと、待って! 紗子は、東宮妃になる前から、左近の息子さんに恋をしていて、それを小父さまも知っていた……って、こと?」

「ああ」

「だったら、どうして!」


 どうして、娘の秘めた想いを知りながら、他の男に嫁がせるような残酷な真似ができたのか。

 家のために入内は避けられないことだと言うのなら、だったらせめて、良直を遠ざけて、恋を諦めさせようとは思わなかったのか。

 身近に想い人がいたら、いつまでも恋心を捨てられるわけがないだろう。


「何を言っているんだい? 、入内させる意味が生まれるんじゃないか」

「……どういうこと?」

「考えてもみたまえ、紗子は、左大臣家になど何の思い入れもない。そこに良直がいることで初めて、『身を張って家を守ろう』という気持ちになるだろう?」


『あら、紗子から父親として慕われていないという自覚はおありでしたのね』などと、皮肉を返す余裕は無かった。

 目の前の優美な姿をした権力者が、得体のしれない化け物のように思えていたからだ。


「左大臣家の家司である良直は、仮に左大臣家が没落したとしても、左大臣家の忠臣とみなされて、右大臣派に鞍替えすることはできない。我が家とともに、沈みゆくだけだ。それを紗子も分かっているから、何としてでも、左大臣家を盛り立てようとする」

「……良直さんを、紗子の人質にしたってことですか」

「有り体に言えばね。だが、紗子にだって、里下がりすればいつでも好いた者に会える利点もあったはずだよ」


『私は、一度だって彼女たちの仲を阻んだこともないのに、そんなことで機嫌を損ねて逆らうなんておかしいなあ』とぬけぬけと続ける男を、一発と言わず何発か殴って、言葉のかぎり罵ってやったとしても、ちっとも足りないと思った。

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