第8夜①
それは昔々、と言うには及ばない、少し昔に起きた出来事だ。
「どうして、私はここにいるのかしら」
京でも一二を争うほど大きな屋敷の、立派な部屋に住まう姫君は、ちっとも幸せではなかった。どんなに煌びやかな衣装を与えられても、どれほど多くの高貴な男たちから恋文を送られても。
だって、姫君は知っていたからだ。
父親は自分を帝の妃にするためだけに引き取った。今まで存在すら忘れかけていたくせに、役に立つ道具だと思った途端に、ころりと態度を変えて。
『東宮妃になるために』と望みもしない手習いをさせられて、嫁ぎたくもない男を称える美辞麗句を聞かされて『彼に入内できるのは名誉で恵まれたことなのだ』と説かれる。
姫君が祖父の屋敷で手習いを熱心にしていたのは、大好きな従姉と競うことが楽しかったからだ。彼女がいなくなった今、一人でやりたくもない手習いをすることに、何の楽しみも見出せない。
その従姉とも、しばらく会えていない。彼女は、祖父の家に頻繁に会いに来てくれていたのに、父の屋敷に移ってからというものの、顔も見せてくれなくなった。早く会いに来てほしいと従姉宛ての文を何通書いたって、返事は一通も返ってこない。
姫君は、その広い屋敷の中で、多くの人に傅かれ、囲まれながら、ひとりぼっちだった。
「……私は、鈴虫じゃないわ」
ここは私の居場所ではないと強く思う。
だが、『私の居場所』とはどこにあるのだろう。
自分は強い従姉とは違う。野に放たれては生きていけない。
箱の中を嫌悪しながら、箱の中で餌を与えられなければ生きられない鈴虫は、箱の中で息が詰まって死ぬのを待つしかないのに。
そうなる前にいっそ、と
「今、『鈴虫』と聞こえましたが、お好きなのですか?」
庭に、少年が立っていた。
彼は断片的な言葉だけを聞いて、姫君が虫の音を聞くために外に出てきたとでも思ったのだろう。
彼から、はい、と差し出された鈴虫は、近くで見ても全く可愛らしくはなかった。そもそも、姫君は鈴虫が好きなわけではない、むしろ遠ざけたくなる部類だ。
「……ありがとう」
それでも、その少年の優しさを本当に嬉しく思った。
――寂しい姫君が、同じ年頃の少年に惹かれていくのは、当然のことだった。
☆
左大臣の堂々とした立ち居振る舞いは、彼の自信を滲ませていて、その身が内裏の中にあっても、まるで彼がここの主人であるかのような雰囲気を漂わせている。
廊を歩く彼のことを、御簾のうちの女房たちは、ほう、と溜息を吐きながら見送っていた。否、見惚れていたと言うべきだろうか。『美しい』という密やかな賛辞も聞こえた。
確かに、この男は、人の目から見れば美しいのだろう。沙那には、さっぱり理解できないけれど。
憎々しく睨みつけていた視線に気づかれたのだろうか、左大臣は、沙那が控える間の手前で立ち止まり、軽く頭を下げて、御簾のうちに入ってきた。
「久しぶりだね。我が娘よ。ご機嫌はいかがかな?」
「機嫌は最悪ですわ。……人払いを」
沙那が命じれば、女房たちは遠ざかって、その場には左大臣と沙那だけが残される。
左大臣はゆっくりと周囲を見回して、片膝を崩して座った。
「小姫、どうしたんだい? わざわざ私を呼び出すなんて」
人目が無いことを確かめてから、楽な姿勢をとった左大臣の顔には、動揺の色は見えず、自宅のように寛いでいた。わざわざ沙那が呼び出した以上、何か緊急の事態が生じたのだと、見当がつかないわけもないだろうに。
沙那が何を話そうとしているかは知った上で、『それがどうした』と態度で示しているのだろう。
この男にとっては、沙那の企みは、仔猫がじゃれつくよりも御しやすく、たわいもないものだと位置づけているのだろう。……悔しいが、その認識は正しい。
沙那は唇を噛み、本題に入ることにした。
「小父さま」
「何だい?」
まるで実の伯父か何かのような気軽で陽気な受け答えをする彼をよそに、沙那は背中にじっとりと嫌な汗をかいていた。
立ち向かう敵は、あまりにも強大すぎる。それでも、立ち向かわねばならない。
大きく息を吸って、吐いた。
「小父さまは、どうして紗子を呪ったの?」
一気呵成に切り込むと、にたりと笑う無言の笑みが返ってきた。
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