第7夜①

 承香殿の上位の女房の中に、右大臣派に内通している者がいる。――このこと自体は事実だろうが、いざ『その内通者が誰か』となると、絞り込むのは難しい。


(見当がつきそうで、意外とつかないのよね……)


 内通者は、左大臣が威信にかけて用意した材料と配合法を注ぎ込んで、やっと完成した香を奪い取り、梅壺との戦いで『敗北』の汚名を着せるのだ。

 そうなれば、左大臣が『用意した香を梅壺に渡した者は誰だ』と犯人を捜さないはずがないし、香を掘り出す日と場所を知っている上位の女房たちに疑いの目を向けることは容易に予想できる。

 左大臣は、自分を貶めた者のことを絶対に許さないだろう。他の者の離反を防ぐ見せしめとしても、内通者には過酷な罰を与えるはずだ。

 重用されている上位の女房であれば、そんな左大臣の気性も知っているはず――となると、内通者にとっては、『罰』を受ける恐れを鑑みてもなお裏切るに足る見返りがあったということになる。


(それでも裏切って内通したとすると、右大臣派の親族がいて、左大臣よりもそちらを選んだとか? いいえ、家柄が右大臣派の者は、最初から省かれて、承香殿への出仕を認められないはずよ。家のしがらみで、どうしても右大臣派につかざるを得なかったとは考えにくい)


 義理人情が理由ではないとすると、右大臣派から内通を持ちかけられた際に提示された金銭に目が眩んだのかとも思うが、それも考えにくい。


(宮仕えの女房には、大してお金を使う使いどころがないもの。多少の贅沢をするだけなら、裏切りの対価としては安すぎる。考えられるとしたら、『裏切れば親や兄弟に官位や財産をあげるから』と誘われたら、まだあり得る気もするけれど。でも、これもよく分からないのよね。いきなり、そんなことを言われて信じられるものかしら……)


 今まで付き合いの無かった者から『官位や財産をやる』と、自分に都合がいい口約束をされたとしても、切実な願望だからこそ、おいそれとは信じられない。

 その言葉一つを信じるとしたら、信じるに足る信頼関係を以前から築いていた場合だけだ。だが、元から右大臣派に接触していたような者は、左大臣に排除されて、承香殿の女房には選ばれないはずで――考えは、そこで堂々巡りになってしまう。


(あとは……『付き合いのない相手から持ち掛けられた、頼りにならない口約束だ』ということは分かっていても縋らざるを得ないというか、僅かな可能性にも賭けないといけないくらい、切羽詰まった人なら……?)


 それほど貧しい者はいただろうか、と訝しんでいたところに、思いもかけない『答え』が飛び込んできた。

 その夜の寝所で、寛高は帳面を沙那に差し出してきたのだ。


「頭中将に、兵衛府と検非違使庁の捕らえた罪人の記録を調べさせた」

「兵衛府と検非違使庁の?」


 左右兵衛府は、内裏や京の警備を担当する役所であり、検非違使庁は、罪人の逮捕や尋問、刑の執行を行う役所だ。

 兵衛府が巡邏の際に不逞の輩を発見したり、検非違使が捕らえたりしていれば、その記録をつけているはずだが――それが、承香殿の内通者とどう関係するというのか。


「考えたんだ。内通者は、承香殿の上位の女房だ。左大臣に信頼されて、期待されているはずだ」

「ええ、そうだけれど……?」

「せっかく、女御の側仕えの女房にまで出世したなら、わざわざ右大臣派に阿る必要はない。そうするくらいなら、その分、左大臣にすり寄った方が、本人も親兄弟も確実に出世できるだろう」

「あっ!」

「それでも、内通者は左大臣を裏切り、右大臣派に与した。背景にあるのは、もっと切羽詰まった事情だろう。『これから得る出世や金銭』よりも切迫しているのは『持っている地位や財産を失うこと』だと思った。……ちょうど、今の検非違使庁は、右大臣派が多勢を占めている。右大臣の意向で、多少の便宜は図れるだろう」

「なるほど、確かに!」


 右大臣派は、罪人を見逃す見返りとして、罪人の縁者である女房に、裏切りを求めたのではないか。――寛高の推論はもっともに聞こえる。

 流石ね、と沙那が称えると、彼は軽く肩をすくめて応えた。意気揚々と帳面の文字を追った二人は、しばらくして失意に肩を落とすことになる。


「……いないわね、承香殿の女房の縁者は」

「ああ……考えてみれば、左大臣も罪人の縁者は雇わないか」

「落ち込まないで。良い考えだったと思うわ」


 念のために二度三度と帳面を見返したが、女房と縁のある者の名前は、記されていなかった。あてが外れたかと思いかけたその時、天啓が下りてきた。


「……そうよ! この帳面に書かれたような、『有罪』と決まってしまった罪人は、後から隠そうとしても揉み消しようがないもの。隠したい『弱み』にはならないわ」

「見当違いだったということか」

「違うわ! あなたはいい線いっていた、ってこと!」


 考えてもみなさい、と、沙那は、彼の目の前に、ずずいと帳面を突き出した。

 仰け反る彼を逃がさずに、鼻先に指を突きつける。


「検非違使に目をつけられて、一度捕まってから『今回は見逃してやる』って、お咎め無しで済まされた者なら、どう!? 右大臣派から『いつでも捕まえることができるけれど、香合わせで左大臣を裏切るなら許してやる』と言われたとしたら?」


 そうだとしたら、その女房は、縁者の身柄を人質に取られて、『弱み』を握られていることになる。縁者を一刻も早く解放するために、内通者となることを了承する者もいるかもしれない。

 沙那の思いつきを聞き終えて、寛高は眉根を寄せて言った。


「……可能性はある。だが、それで見逃されたなら、検非違使庁の記録には残っていないだろう」

「そうね。でも、一度は疑われたってことは、そのために動いた人がいたはずよ。人が動いたのなら、そこには必ず、噂が残る」


 検非違使庁は、右大臣派の検非違使別当たちだけが務めている役所ではない。実際の捕縛を担当しているのは、下働きの放免ほうめんたちだ。


「放免から話を聞かせてちょうだい」


 その『放免』とは、罪を許されて働く元罪人のことなのだけれど。

 慌てふためいた寛高が、必死に沙那を思い留まらせようとするのが、なんだか面白かった。


 そして、それから数日が経ったある日の昼のことである。


「女御さま、お召し替えのお時間です」

「左近、話があるのだけれど」

「……なんでしょうか」


 相変わらず冷ややかな距離を保っている左近は、珍しく沙那から話しかけられて驚いたのだろう。立ち上がった沙那を見上げる顔には、戸惑いがあった。


「先の備後びんごのごんのすけ大江おおえの良直よしなおって、あなたの息子よね?」


 先日知った名前を口に出せば、その顔は戸惑いを通り越して、泣きそうに歪んだ。

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