第6夜⑥

 香合わせの件の後で、沙那は『物忌み』を理由に、一切の連絡を遮断した。

 弁解して詫びようにも会うことすらできない日々の中で、どうにか彼女の怒りを解くことができないかと、梅壺の女御の処遇を整えて、『近況報告』という建前で送った文は受け取ってもらえたと知り、急いで彼女の局に駆けつけてみれば、彼女は文机に向かっていた。

 沙那の表情を見れば、文のどのあたりを読んでいるのかはだいたい分かった。ほっと頬を緩ませて笑い、眉をつり上げて怒り……彼女は分かりやすすぎるのだ。


「そう。良かった……」


 彼女の唇から零れた微かな吐息は、ただ、不遇の少女を案じるもので、そこに『競争相手を蹴落としてやった』という達成感や愉悦は全く含まれていなかった。

 その姿を陰から見守るだけで、声をかけられなかったのは、沙那が自分に――主上に、どんな顔を向けるかを見たくなかったから。


「主上? どうしてこちらに? 何か御用ですか?」

「左近。今夜、彼女を召す」

「……かしこまりました」


 そのくせ、沙那が『主上じぶん』に会ってはくれないと思えば、呼びつけてでも会いたくなるのだから、自分は歪んでいる。


「このようなお戯れは金輪際お止めください」


 夜御殿に呼び出された沙那は、不機嫌を隠そうともせず、硬い雰囲気を漂わせていた。きっと、相当の覚悟を決めて、この場に臨んだのだろう。

 怯えさせてしまったなら、早く誤解を解いて安心させてやらないと――という、庇護欲に似た感情は、即座に霧散した。彼女が立て板に水と、『主上の悪口』を唱え出したからだ。


「私には、主上の良さが全く分かりませんっ!」


 いつか、紗子から沙那の話を聞いた時、『祖父に嫌われると分かっているのに機嫌を損ねる行動をするなんて、後先を考えない女だな』と思った。

 それが沙那にとってはどうしても譲れない『父』の方を選ぶという宣言だったと知って、納得はしても、もっと本音と建前を使い分けて上手くやる生き方もあるだろうに、という呆れは拭えなかった。


「紗子に対しては不誠実ですし、梅壺の女御さまには非情すぎますっ! そんな御方のこと、私だったら、絶対に好きになりませんっ!」


 今は違う。今は、『羨ましい』と思ってしまう。

 どうして、沙那の父や紗子や梅壺の女御は、沙那に自分のために怒ってもらえるのだろう。梅壺の女御なんて、大した付き合いもなかったくせに。

 どうして、俺は、『沙那の大事なもの』に入れてもらえないのだろう。……分かっている、沙那の大切な従妹を傷つけたからだということは、分かっているけれど。


「……分かった。お前の気持ちはよく分かったから、トドメを刺すのはやめてくれ」


 観念して正体を明かすと、沙那は驚いた顔をした。

 途端に軟化した彼女の態度に、『寛高』は彼女から疎まれていないらしいと知る。それだけで十分すぎると思わなくてはならないのに。

 空腹のときに少しの食物を与えられれば、ひもじさをいっそう実感するように、『寛高』として彼女の温かさに触れた心の餓えはどうしても収まらなかった。

 そこに、沙那という女の気質も、状況の悪化に拍車をかけた。


「内通者がいるなら、好都合だわ。だって、きっと、よく伝わるでしょう? 主上が女御を寵愛しているってことが、右大臣の耳にまで。わざと煽って、慌てふためいてもらえば、取り繕えなくなるかもしれない」


 沙那はおとなしく待つ、耐える、ということを知らない。何かできることがあるなら打って出ることを選んでしまう。

 おまけに、沙那は『寛高』には少々気を許しすぎている気がする。

 日中も寝所でも一緒に過ごして、べたべたと触れ合うことにも躊躇いが無い。……それは、親しみと引き換えに、寛高を全く意識していないことの裏返しでもあるのだろうけれど。


(俺がどれほど我慢しているか知りもしないで)


 暁を覚えないほどぐっすりと惰眠を貪っている彼女の能天気な寝顔を見ると、悔しさと憎らしさが湧いてくる。だからといって、彼女に何かすることもできないのが、『惚れた弱み』の哀しいところだ。


(何か、沙那の嫌がることをして。これ以上嫌われたくはないからな)


 だから、沙那が『鬱陶しいから傍に近づくな』と言うなら、離れて過ごさなければならないのである。たとえ、呪詛を受けた彼女のことがどれほど心配であっても。


(とはいえ、仮にも『夫』なのに、あれほど嫌がらなくてもいいじゃないか……)


 今朝の出がけの沙那のやりとりを思い出して黙りこくった寛高に、信重は、同情のこもった眼差しを向けてきた。


「……あれ、まあ。とうとう女御様に愛想尽かされちゃった感じですか。まあ、いつかそうなるかもとは思ってましたが」

「その口を即刻閉じねば、縫いつけてやる」

「仕事に行ってまいりますっ! ええ、なるべく早く犯人を見つけるためにねっ!」


 すたこらさっさと逃げ出した信重を追う気力も無い。彼の呪詛の犯人の捜索が不十分だったらねちねちと詰めてやろうと陰湿な復讐を企みつつも、『愛想を尽かされた』という言葉の重みは、ずしりと寛高の心にのしかかっていた。


「クソッ……」


 愛や恋を恥ずかしげもなく口に出して、惚れた腫れたで生きるの死ぬのと大騒ぎする輩のことを、心底馬鹿にしていたのに。


『ねえ、本当よ。あなたはきっと、妻に恋をするわ』

「……ああ、そうだよ。お前が正しかった」


 新婚初夜の床で、紗子が告げた言葉を思い出し、寛高は舌を打った。

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