第6夜②
「沙那ったらね、本当に凄いの」
橘則実の娘・沙那の話を最初に聞いたのは、まだ東宮妃になる前の紗子の口からだった。
紗子とは互いに、互いが結婚する相手であり、そのために引き合わされたのだということは分かっていて、大人の意向に逆らうことなどできないと悟ってもいた。
左大臣に厳しく言い含められているのだろう、礼儀正しいが中身の無い世間話ばかりをしていた紗子が、その従姉のことだけは、目を輝かせて話していた。
「どう凄いんだ?」
「沙那のお父さまは、昔は、身分が低いからとおじいさまに毛嫌いされていてね、沙那も『下賤な父親の血を引いているから風流も分からないのか』と酷いことを言われたことがあったの。その時に、沙那が何をしたと思う?」
「幼い頃の話だろう? 普通なら泣くことしかできなくても仕方がないと思うが、『凄い』ことか……祖父に殴りかかったとか?」
「もうっ、沙那はそんなことしないわっ!」
機嫌を損ねたと言いたげに、紗子は頬を膨らませていたが、寛高が彼女の話から想像した『沙那』はいかにもそういうことをしそうな少女だったのである。
聞いた話の通りに思い浮かべて、思った通りに答えただけなのに、なぜ怒られるのかと釈然としない気持ちを抱えつつ、寛高が話の続きを促すと、紗子は生き生きと語り出した。
「沙那は、とびっきり綺麗な小箱を用意して、上等な紙に綺麗な蹟の文字で書いた歌を添えて、持っている中で一番上等な着物を着て『おじいさまが教えてくださったことへのお礼です』ってお行儀よく手渡したの。――実は、その小箱の中には、沙那が捕まえた鈴虫がぎっしり入っていたのだけれどね」
「なっ!?」
「沙那ったらね、音で先に中身が分かってしまわないように、氷室の氷を拝借して、虫を眠らせておいたんですって。ほら、冬になると、生き物はみんな、動きが鈍くなるでしょう? 冬みたいに涼しくしておいて、おじいさまが箱を開けて暖かくなったら動き出すように……」
「やめろっ、想像させるな!」
「うふふ。えげつないわよねえ」
にこにこと微笑んでいる紗子をよそに、『世の中には恐ろしい女もいるものだ』と背筋を凍らせたことを覚えている。
彼女の言う『沙那はそんなことしない』とは、『沙那ならもっとえげつない復讐をする』という意味だったのかと、真剣に思い悩んでしまった。
「そんな意趣返しをすれば、それこそ『風流を知らない』と言われそうだが」
「それが、添えられていた歌がね、大人顔負けでとても上手くて、美しかったの。『鈴虫が生きるべきは野であって、ふさわしくない場所に無理に詰められても、美しいとは思われない。美しいと思われるものは、ふさわしいものが、ふさわしい場所にあって、自らの力を活かしているからだ』という感じの歌……」
「痛烈な皮肉だな」
――お前は身分が高いだけで、置かれた地位にふさわしい才覚もないくせに。地位が無くても才を発揮して生きている父の方がずっと立派だ。
――風流の知識だけあっても、ふさわしい者が説かない知識は、こうやって悪用されるだけだ。
そのどちらか、否、きっとどちらもの意味を込めた歌を、年端もいかない少女が詠んで、『一匹ずつ取り出せば風流だが意味も理解せず集めたせいで台無しになった、虫入りの小箱』を『風流の知識はあれど品格には欠けた祖父』に対して贈りつけた――なるほど、『風流』をこの上なく理解した復讐だ。
ただ、それで一時、祖父の鼻を明かしてやることはできたとしても、多少胸がすくだけで沙那と祖父との関係は決定的に悪化しただろう。後先を考えない女だなと呆れると、紗子はくすくすと笑っていた。
「そうね。それもあるけれど……沙那は、自分のことを『箱に詰められた鈴虫』だと思っていたんでしょうね」
――私の居場所はここじゃない。こんな家、出ていってやる!
そうか、その歌は決別宣言だったわけだ。
誰かにしたり顔で忠告されなくたって『そんなことを言えば、祖父に見放されるぞ』なんてことは、当時の沙那だって分かっていて、覚悟の上で決行したということか。
随分と苛烈な女だ。
その苛烈な女と淑やかな紗子が従姉妹で仲が良いということが不思議に思えた。『そんなに気が合うのか』と尋ねると、紗子は小首を傾げて少し考え込んでから、訥々と言った。
「だって……私もね、箱にぎゅうぎゅうに詰め込まれた鈴虫の気持ちは分かるもの。だから、私にとっても思い出深かったの」
――自分の居場所ではない箱に詰め込まれても、苦しいだけだ、と。
紗子がいなくなったあの夜、寛高が最初に思い浮かべたのは、彼女と出会ったばかりの頃に聞いた、あの言葉だった。
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