第5夜③

『宰相の君』は、急な病を得て、実家に帰ることになった――というのは、もちろん表向きの説明で、実際の理由は、常時『承香殿の女御』の役をこなすようになった沙那に、一人二役を演じるだけの余裕がないからである。


「女御、ご機嫌はいかがかな?」

「まあ、主上。こんなに早い時間からお逢いできるとは、思っておりませんでした」

「今日は官奏が早く終わったからね。……それは、葦手あしで書きかい?」

「ええ。手遊びに書いてみましたの」

「女御は多才だね。私もやってみよう」


 政務を終えたその足で承香殿の女御を訪ねる帝と、おっとりとそれに応じる女御の姿に、女房たちは目の保養だと惚けたり、気を利かせて部屋から退がったりしたものだが、そのやりとりの真意は殺伐としているというか、気の置けないというか、ともかく色気のないものだった。


『仕事を怠ける口実に私を使わないでください。他人の機嫌を伺う暇があるなら、きちんと仕事して』

『はあ? 仕事なら当然終わらせてから来た。見くびるな。今、お前が手に持っているものは何だ?』

『葦手書きに見せかければ、暗号のやりとりがしやすいかと思いまして』

『良い案だな』


 ……といったところである。


 葦手書きとは、風景画の中に文字を潜ませた絵を描くという遊びだ。この遊びに二人で熱中しているように見せかければ、人目も人の耳もある昼の承香殿であっても、筆で密談することができる。

 つまり、寛高が政務を行う時間以外の全ての時間を、紗子の捜索とその手がかりを得るための相談に費やせる名案を思いついた……はずだった。


(近いっ! そんなに近づかなくてもいいんじゃないっ!?)


 文机に向かって筆を執っている沙那を、背後から抱きかかえるようにして寛高は座っていた。

 同じ紙にさらさらと筆を走らせている様子からすると、彼にとっては『意思伝達のための良い手段だ』という考えしかないのだろうが、沙那としては落ち着かない。

 肌が触れ合う首元からは彼の熱が伝わってくるし、良い香りだって漂ってくる。


「なんだ、それは?……蛙のつもりなのか? ふふっ、全然似ていないな」


 沙那の書いた絵を見て笑う声を聞いても、不思議と嫌な感じはしなくて、むしろ、屈託のない笑みを浮かべた横顔に、目は釘付けになってしまっていた。


「っ、下手で悪かったですねっ! 絵は得意じゃないのよ!」

「悪いとは言っていないだろう。さ……女御にも、不得意なものがあるのが、意外だっただけで」

「あ……」


 そうだ。私は今、『承香殿の女御』なのだ。

 寛高の何気ない言葉を聞いて、頭をぐわんと殴られたかのような衝撃を受けた。


『これから『宰相の君』には退出してもらうとすると……お前のことを呼ぶ別の名が必要だな』

『私の?』

『ああ、そうだ。紗子から聞いたんだが、良かったら、俺もお前のことを――』

『私の呼び名は『承香殿の女御』のままでいいのでは? 私のことを『宰相の君』とも『紗子』とも呼べないのは分かりますが、他の呼び名を聞かれて訝しまれるのも困るでしょう?』

『……ああ、そうだな』


 先日の寝所でのやりとりの際に、寛高と話して、沙那は『承香殿の女御』とだけ呼ばれるようになった。そう呼ばれることを、沙那自身が望んだ。

 それなのにどうして――私は『絵が不得意な私のことを見てほしい』などと思ったのだろう。


「……ごめんなさい。『承香殿の女御』なら、絵も上手いはずよね」

「どうした?」


 紗子なら何でもそつなくこなしたはずだ。彼女は、左大臣が理想的な東宮妃として作り上げた最高傑作だったのだから。

 その彼女の身代わりとして沙那はここにいるのに。立派に身代わりを務めて、紗子の穴を埋め、彼女の不在に気づかせないことが役目だというのに、至るところで、紗子に及ばない。


(それなのに、私は、私が至らないことを恥じるどころか、できない私のまま、『私』として見て、『私』を呼んでほしいだなんて。私こそ、とんだ裏切り者じゃないの)

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