第4夜①

みお、どうして……っ、やっと、これからずっと一緒にいられると思ったのに!」


 それは、母が死んだ日の記憶だ。

 青白い顔の動かなくなった母を前にして、父は人目も構わずに慟哭していた。その様子が何やら恐ろしくて、沙那は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 沙那の父母は、子ども心にも誇らしさを覚えるほど、仲のいい夫婦だった。

 美しい娘を高位貴族の妾とすることを望んでいた祖父母は、自慢の娘が貧乏な学生を密かに通わせて結婚し、子まで儲けたことが気に入らなかったらしい。もしも沙那が男児だったら、『出世の役にも立たない男子を、うちが養う義理は無い』と放り出されていたのではないだろうか。


「あなたには肩身の狭い思いをさせてしまっている。沙那にも、私が父親なせいで……」


 母は結婚が発覚した後、姉妹で暮らしていた西の対の屋から、祖父の屋敷の古びた東の対の屋へと移されて、そこで沙那を産み育てた。

 父と逢うことを止められこそしなかったが、父は婿として遇されず、食事や衣装を準備されたこともなかったらしい。

『六位の緑色のほうがみっともない』と正殿の女房たちに笑われる父も、『自分の軽挙のせいで妻子につましい思いをさせている』と悔いる父も見たくなくて、母の膝の上で寝たふりをしていた沙那は、起きる時を見計らい、鼻をひくつかせた。


「こら」

「痛っ! 何だい!?」

「私が好きになった人のこと、悪く言わないでちょうだい」


 けれど、母の動きは、沙那よりもずっと迅速だった。

 頭を下げ続ける父の額を、ぴん、と勢いよく指で弾いたのだ。

 痛みで涙目になった父に、悪戯っぽく笑いかけていた。


「お父さまや女房たちにあなたを悪く言われるたびに、私はいらいらしているのよ? あなたまで私を怒らせたいの?」

「いや」

「沙那なんて、その都度、ぷりぷり怒り出しちゃって、大変なんだから。あなたが自虐をしているのを知ったら、また怒るわよ」


 まったく、その通りだ。沙那が鼻を鳴らすと、父の視線がこちらを向く。

 娘に情けないところは見られたくなかろうと気遣って、寝たふりを続けてやった。


「すまなかった。……沙那はぷりぷり怒るのか」

「そうよぉ? 可愛いけれど暴れん坊なの」

「ふふっ、それは可愛いだろうなぁ……」


 父の訪れは、幼い沙那が起きている時間には間に合わないことも多い。

 父はしばらく黙りこくって、意を決したように言った。


「……私がもっと出世して、澪と沙那に恥ずかしい思いをさせない男になったら、北の方になってくれないか」

「今さら何よ? 結婚して何年経つと思っているの。それとも何? 私以外にも妻を持つけれど『正妻は君だから』って言いたいの? 浮気は許さないわよ」

「そういう意味じゃない。私の家に来てほしいと思って」

「だから、『今さら』でしょう? 早く出世してちょうだい」

「澪!」


 沙那ごと母を抱き締めた父は、泣いているようだった。

 父の耳元で――沙那にも聞こえる距離で、母は歌うように言った。


「私たち、これまでの分を取り返すくらい、うんと幸せになるのよ」


 あなたと一緒に、あなたの傍で歳をとって、最期まで幸せなままで死ぬの。――母の願いは、半分しか叶わなかった。


 父が正五位上の位を手に入れた頃だったか、父は自分の屋敷を用意して、妻子を連れて移り住んだ。

 そこでは母は『北の方さま』と呼ばれるようになって、気を遣って窮屈そうにしていることもなくなって、父母には笑顔が増えた。やがて、沙那の弟妹を授かったと嬉しげに告げられて――。


『沙那の時も安産だったから、心配ないわ』


 心配しすぎて狼狽する父と沙那をよそに、母が一番落ち着いていた。

 出産は血の穢れを伴うからと、父と沙那は産屋には入れずに、ずっと神仏に祈って待ち続けて、でも、その祈りは届かなかった。


「澪っ、嘘だっ! 澪……っ!」


 母の死に立ち会うとすらできなかった。最期に一片の言葉を交わすことすらできなかった。――もしも、こんなことになると分かっていたら、いくらでも穢れたって構わないから、最期の時を惜しんだのに。

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