第3夜⑤

「嘘よっ!」


 沙那が勝利を噛み締めることを阻むように、場に甲高い声が響き渡った。視線を向ければ、梅壺の女御が可愛らしい顔をくしゃくしゃに歪めていた。


「梅壺の女御さま?」

「こんなの、いやっ、違うのっ!」


 今にも泣き出しそうだ。

 香合わせで負けたことがそれほど辛かったのだろうか。可哀想だが、絶対に負けたくないなら勝負を仕掛けなければよかったのに――という突き放した思考は、彼女の涙を見て、ついに吹き飛んだ。


「あたし、間違えた……せっかく、主上が来てくださったのに……っ、やっとお会いできたのにっ、だめなところばっかり見せてっ、ごめんなさいっ!」


 しゃくり上げながら『誰か』に、おそらく帝か父親の右大臣相手に詫びる様子は、尋常なものとは思えない。

 悲痛な様子に、つい沙那が手を差し伸べようとした時だった。


『大変! 物の怪が女御さまに取り憑いたわ!』

『僧都を呼んできて!』


 梅壺方の女房たちが、俄かに騒がしくなったのは。


「……はあ?」


 彼女たちは何を言っているのだろう。

 梅壺の女御が何に傷ついて、取り乱したのかは誰の目にも明らかじゃないか。

 それを放っておいて、騒ぎ立てて、自分たちだけ逃げ惑って、挙句に『物の怪が取り憑いたせいだ』ときた。

 まったく、ふざけている。沙那は拳を握り締めた。


「女御さま、早く承香殿に戻りましょう」

「先に帰っていて。少し用事があるの」

「用事ですか。こんなときにどのような……」

「もちろん、急を要する用事よ」

「っ、女御さま! お戻りください!」


 左近の制止の手をひらりと躱して、沙那は無遠慮にずかずかと梅壺方に近づいた。


「ひぃ……っ!」

「あなたは、その子を介抱する気があるの?」

「何ですの、勝手に入ってきて……」

「がたがた抜かす隙はないでしょう。介抱する気があるなら、早くなさい。その気が無いならとっととそこを退きなさい! 邪魔よ!」


 一喝すれば、女房はあっさりと引き下がる。その様子が『これ幸いと』にしか見えなくて、湧き上がる不快感を振り払い、沙那は、苦しげにぜいぜいと息をする梅壺の女御の手を取った。


「ごっ、ごめんなさいっ、おとうさま……」

「黙って。ゆっくり息を吸って」

「だって……っ、なんでっ、承香殿の女御がっ! 梅壺のことなんて、良い気味だってっ、思ってるんでしょっ!」


 涙で化粧が落ちて、思いの外、あどけない顔が覗いていた。まだ幼い少女が、帝の寵愛を奪い合って、敵対心を抱いているのだ。

 馬鹿馬鹿しい。

 私たちは『梅壺の女御』『承香殿の女御』という名前ではない。そうあるために、生まれてきたわけでもない。


「舌を噛みそうな長ったらしい名前なんて忘れて。私があなたに触れているのは、嫌?」

「いやじゃ、ないっ、けど……」

「じゃあ、このまま抱っこしているわね。嫌になったら言いなさい」

「ぅ、ぐ……っ、ううっ、うわあぁ――!」


 沙那が少女を抱き締めると、少女は嫌がるどころかひしと縋りついてきた。

 この子を見捨てられるものか。沙那は、彼女が泣き疲れて眠りに落ちるまで、じっとその場を動かなかった。


「……ああ、あなたもいたの。主上から騒ぎを知らされた?」


 その時になって、近づいてくる直衣姿の公達に気づいた。流石に事が事だからか、神妙な顔をしている。


「香壺の差し入れ、助かったわ。ありがとう」

「そんなことはいい」


 ぴしゃりと言い放った寛高は、涙で濡らした沙那の袂に包まれた少女を見やった。


「……梅壺の女御を運ぶのを手伝う」

「結構よ。夫でもない殿方にみっともないところを見られて身体に触れられたなんて知れば、この子はもっと傷つくわ。……もちろん『夫』に見られたことにも、とても傷ついたでしょうけれど」


 彼女の目が覚めたら目立たないように梅壺に帰すつもりだ、と言うと、寛高は『そうか』と言葉少なに答えた。大ごとにすべきではないということに、彼も同意しているのだろう。


「他に、俺にできることはないか?」

「そうね。右大臣に伝えておいて。『所詮は自分の娘に頼らなきゃ出世もできないご身分のくせに、壊れるまでぞんざいに扱うなんて、女を舐めるのも大概にしろ』って」


 彼にできることと聞いて、最初に思い浮かんだのは、それだった。

 四位の蔵人なら格上の相手には言いづらかろうが、不思議と寛高なら叶えてくれる気がする。反対に言えば、彼も応じてくれないなら、沙那には、この哀れな少女のことを訴えるすべがないのだけれど。


「それから、主上にも。『目を逸らすな。全部あなたのせいよ』と」

「っ、!」

「できれば私が直接伝えたかったけれど、私は穢れとやらに触れてしまったみたいだから」


 何が『穢れ』だ、馬鹿馬鹿しい。

 人は誰でも、病からも死からも逃れられない。それを遠ざけて触れないようにして見ないふりをすることに、何の意味があるだろう。


『穢れに触れてしまうから、姫さまはお戻りなさい。これは、北の方さまのお望みです』


 沙那と父が、母と弟の死に立ち会えなかった理由を、久しぶりに思い出した。


「……ああ、必ず。確かに伝える」


 確かに頷いた寛高の視線が、真っ直ぐにこちらを向いていることに、満足に似た感傷を覚えた。

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