第4話②
あの時、もしも、制止を振り切って、産屋に入り、母に声をかけていたら。
いや、時をもっと遡って、父が周囲の反対に構わずに母を攫っていたら、もっと長い時間をともに過ごせたかもしれない。
己の心に反して動けずに終わった時、『もしも』の悔いは残る。その悔いを忘れ去ることができるほど人生は長くないから、『一生悔やむ』と言ってもいい。
それとは反対に、自分の心のままに――わがままに動いて、悲惨な結果に終わったとしても、自分はきっと後悔しないと思った。
『有馬の湯は、浸かるとお肌がすべすべになって、お風呂上がりもずっと、身体の芯まで温もったままなの。雛子はここに来られてよかったと思います。お姉さまのおかげよ』
ましてや、その行動が良い結果を収めたのなら、喝采を上げたくもなる。
雛子――元『梅壺の女御』からの文を受け取って、沙那は顔を綻ばせた。
香合わせの日の騒ぎを経て、帝は右大臣を呼び出して、『物の怪憑きの女御など愛せぬ』と直接に言い渡したらしい。
恐縮した右大臣は『梅壺の女御は内裏を退がらせて、その妹を新たな女御として入内させる』と申し出たそうだが、帝の怒りは深く、到底受け入れられなかったとか。
思い返してみれば、帝は紗子だけを一途に愛しており、他の女御を迎えることを拒んでいた男だ。元から、右大臣が強引に入内させた娘に不手際があれば、それを口実に鬼の首を取ったようにあげつらうつもりだったのだろう。年若い少女の落ち度を待ち侘びるなんて、どれだけ陰湿な男なのかと、沙那の中での帝の印象は低下して久しい。
ともかく、右大臣は、帝の不興を買って自分の出世をふいにした上に『狂女御』という不名誉な呼び名をつけられた娘のことを憎み、尼寺に送ろうとしたらしい。
ところが、折良く某宮家から『姫君を有馬の湯で湯治中の女院さまの話し相手に』という申し出があったため、これ幸いと送り出した――というのが、寛高が書き送ってきた内容だった。
『俺の知り合いの宮家に、梅壺の女御を養女として迎えるように話をつけておいた。若い身空で一生隠棲を強いられるのも気の毒だ』
彼の企ては功を奏したらしい。
良い仕事をしてくれるじゃないか、と沙那が内心で寛高を激賞したことは言うまでもない。
『宮様はお優しくて『私の娘ということにして名前を変えて他の方に嫁いでもいい』と仰るけれど、結婚はしなくていいかなと思います。少なくとも、今は』
雛子の言うことはもっともで、今の彼女は『結婚など懲り懲りだ』と考えているだろう。
けれど一度の失敗のせいで、その後の全てを諦めるのは不幸なことだ。落ち着いて考えられるようになってから、何であれ、彼女の望む道を選べばいいと思う。
『主上は、あたしに『申し訳なかった』と詫びてくださいました。だからどうか、お姉さまは主上に怒らないであげてください』
「……あら」
『主上からいただいた文によると『承香殿に叱られた』と気にしておいでのようだったので』
雛子がそんなことを気遣う必要はないだろうにと沙那は眉根を寄せた。
帝は何を考えているのだろう。被害者の同情心を買うような文を送るなんて。それに『叱られたから謝ります』という態度も、本当は反省していないのではないかと疑わしく思える。
(何か弁解があるなら、直接言えばいいのに。……ああ、それで、何度も文を送ってきているのかしら)
「宰相の君、御文をお受け取りなさいませ」
「私は物忌中なの。生憎だけれど、どうしても受け取れないわ」
建前を口にして『応対したくありません』という態度を隠さない沙那を見て、左近は物凄い顔で睨みつけてきていた。今時は、厳格に物忌を守らない者も多いから、沙那がわざと帝を避けていることは伝わったのだろう。
その建前を取っている手前、他の者との文もやりとりするわけにはいかず、寛高に雛子の近況を知らせろと催促することもできなかった。
ようやく今日、知らせが届いたところだから、そろそろ『物忌』は明けたことにしようか、と考えていた頃だった。
「宰相の君、主上がお召しです」
――焦れた帝から呼び出しがかかったのは。
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