第3夜②

 薫物合わせなんて、実際のところ、実家の財力と人脈を競うだけの催しではないか。結果も予定調和すぎて、何が面白いのか分からない、と思っていた。


「大変です! 香壺が、見当たりません! 先に掘り返されたみたいでっ!」


 だからといって、こんな『予定外』の事態を望んでなどいない。

 埋めていた香壺を掘りに行った雑色が上げる悲鳴のような声を聞いて、沙那の背筋は凍りついていた。

 考えが甘かった。相手の道具を奪うことでという妨害方法なんて、思いつきもしなかった。まさか右大臣家がそこまで手段を選ばないなんて。


(どうして、梅壺方は私たちが香壺を埋めた場所が分かったのかしら。……まさか、寛高さまが……?)


『逸品の香料ばかり取り寄せて調合した香は、とっくに遣水の近くに埋めてあるわ』と、私が不用意に口にしたせいだろうか。


「困ったことになりました、

「っ……」


 今日は一日、『承香殿の女御』役としてふるまうようにと言われていたけれど、左近から『女御さま』と呼びかけられたとき、沙那は肩をびくつかせてしまった。

 女房たちのまとめ役である左近は、若い女房のように顔を青ざめさせてはいないが、眉間に険しい皺を刻んでいる。経験を積んだ彼女にとっても、尋常ではない事態ということだ。


「急いで代わりの香を用意するようと伝えましたが……正直、勝ち目は無いかと。香を奪った梅壺は、あの香を香合わせの場に出してくるでしょうから」


 きっと、左近の予想は正しい。

 左大臣家が威信を賭けて用意した一級品を、妨害のために捨ててしまうだけなんてもったいない。奪った武器そのもので止めを刺してやろうと、右大臣家は手ぐすね引いて待ち構えているはずだ。


「……ごめんなさい。全部、私のせいだわ」

「女御さま?」

「負ける恥も左大臣さまからのお叱りも、私が受けます。今は、最低限の体裁を整えることだけを考えましょう」


 寛高に心を許すのではなかった。裏切られた怒りと悲しみでひりつく心を押さえつけて、沙那は枕元の小さな香壺を取り出した。


「これは、使えないかしら」

「……実際に焚いてみないことには何とも申せませんが、試しに使えるだけの分量がございませんので」

「そうね。試さずに提出しましょう。賑やかし程度にはなるわ」


 むしろ、何が何でも、そのくらいには役に立ってもらわねば困る。あの男が、承香殿の女御に――紗子の名に、泥を塗ろうというのなら。


(この香壺を渡したことが、裏切ったあなたの後ろめたさの証だとしたら、私は絶対に許さない。一生、気を楽になどさせてやらない)


 しかと見ていろ。なら、見た者の心を最も傷つける負け様を演じてやる。覚悟を決めて、沙那は一歩前に踏み出した。


 ☆


「あら! 承香殿の女御さまは、少し見ないうちに、また老けたんじゃないかしら!」


 初めて目にする梅壺の女御は、沙那よりも五つほど年若いはずだ。けれど、少女の軽やかな声が紡ぐ言葉は、随分と毒々しい。


(これは……なかなかの問題児でいらっしゃる!)


 寛高の言っていた『なかなか厄介』の意味が分かった気がする。一瞬納得しかけてから、『あんな裏切者の忠告を素直に聞き入れたくない』と、心に浮かんだ面影を捻り潰した。

 沙那はあえてゆったりと座についた。おっとりとした紗子であれば、きっと自然にそうしただろう。それに、余裕の態度を見せつけることは、勝負の上で有用だ。


「病の影響かしらね。お見苦しいものをお見せしてごめんなさい」

「まあっ、まさかその病を内裏に持ち込んでいないでしょうね? 見苦しい自覚があるなら、ずっと、ご実家で療養なされば宜しいのに!」


 沙那が表向きの里下がりの理由を口にすれば、梅壺の女御は、嬉しげに責め立ててきた。彼女にとって、帝の寵愛を一身に受ける承香殿の女御は目の上のたんこぶなのだろう。意地悪をしていびって追い立てて、一刻も早く、寵姫の座から引きずり下ろしたいのだ。だって、今、自らの地位に危機感を覚えているのは、

 少々口の過ぎる彼女を凹ませる役目は、左近と藤命婦が上手く果たしてくれた。


「確かに、梅壺の女御さまは、お若くて健康でたいへんお可愛らしいですものねえ。ふふっ、まるで、童女のようですわ。入内から何年経っても変わりませんわね」

「なっ!」

「お元気いっぱいなのも、夜のお勤めもなく、ぐっすりとお休みだからなのでしょうね」

「なに……っ、うっ、うるさい! 承香殿だって、今は、夜のお召しが無いってこと、聞いてるんだからっ!」

「ええ、それは、ねえ?」


 意味ありげに顔を見合わせる女房たちの忍び笑いを、梅壺の女御は甲高い喚き声を上げてかき消した。彼女が身に纏った撫子色の衣よりもなお紅く染まった頬は、が彼女にとって触れられたくない汚点であることを示している。


 梅壺の女御は、一度たりとも主上の寝所に召されたことがない、愛されぬ妃だ。――その事実は、宮中人の皆が知っていた。


 主上は、東宮時代から東宮妃だけを一途に寵愛してきた。ところが、仲睦まじい二人の間になかなか御子が生まれなかったことから、右大臣が『もっと若い妃の方が母体に向いている』と捧げた娘。

 主上は、右大臣の提案を喜ぶどころか疎み、梅壺の女御には行事ごとの贈り物こそ欠かさずにするものの、見向きもしないという噂だ。


「主上は、承香殿の女御さまを寵愛してらっしゃいますから。病み上がりの女御さまのお身体を気遣うことは、むしろご寵愛の表れですわ」

「それよりも、梅壺の方々は、夜に清涼殿から物音がしないかと、耳をそばだてて寝ずの番をしてらっしゃいますの? 大変ですわねぇ」


(悪口を本人に直接言わなくても、とは思うけれど。左近の言いっぷり、鬼気迫る感じがして、私にとっては味方だと分かっていても、怖いわ。年端もいかない子ども相手でも容赦ないのね)


 いくら梅壺の手の者が、香を盗み出す卑劣な妨害を行ったとはいえ、香合わせで勝負の決着をつけるという建前だっただろう。

 沙那は、ぱんと掌を打ち鳴らし、諍いを収めようとした。


「皆さん、良いではありませんか。梅壺の女御さまは、、私の健康の心配をしてくださったのですわ。ねえ、そうでしょう? 私、とっても嬉しいわ」


 ――梅壺の女御の言葉は、承香殿の女御への心配だと捉えて、水に流そう。

 沙那の命令に、左近や藤命婦は『まだ言い足りない』という顔をしつつも、従ってくれたのだけれど。


「何様のつもりなのっ! 自分が愛されているからって、上から……っ!」


(何故!? 私が一番睨まれている……!)


 梅壺の女御や女房たちの憎悪と怨嗟の視線は、沙那に一身に降り注ぐことになった。

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