第3夜①

 藤命婦の口は、想像以上に軽かった。


「殿方を通わせているようね」

「左近さん」


『局に男を連れ込んでいた』という噂は翌日の昼にはすっかり広まっていて、沙那は左近から膝詰めで説教を食らうことになったのだ。


「違っ、いや、殿方を部屋に招いたことは事実ですけれど!」

「まさか、その殿方に女御さまのことは話していないでしょうね?」

「女御さまのこと、とは……」

「身代わりのことよ」

「それ、話していません!」

「それなら良かったわ」


 幸いにも『自分が女御の身代わり役を務めている』ということだけは、まだ寛高に明かしていない。……それ以外の話はたくさんしてしまったけれど。

 嘘をつかない分だけ説得力はあったのか、左近は追及の手を緩め、懇々と説いてきた。


「いいこと? あなたが身代わりを務めていることは、絶対に秘密よ。例えば、あなたが女御さまの役を務めているときに、偶々その殿方が訪ねてきたら、勘づかれるかもしれないわ」

「もちろん私から話すつもりはありませんが、公達が女御さまと直接に対面する機会なんて無いように思うのですが」


 それは、寛高と話しているうちに気づいた疑問点だった。

 女御の素顔を知る者など、元々ほとんどいないのだ。数少ない素顔を知る者は身内ばかりで、女御が失踪したことを知っているから、今さらごまかす意味もない。

 身代わりを立てるとしても、わざわざ女御と容姿の似た者を用意する必要はないはずである。


「私が女御さまのふりをしているときに、彼が尋ねてきたとしても『宰相の君は女御さまのお相手をしているので出直してください』と言えば通じると思いますし。そこまで警戒しなくてもいいような――」

「……お召しの夜が重ならないとは言い切れないでしょう?」

「んん? ごめんなさい、今、何と?」


 左近がぼそりと呟いた言葉が聞き取れなくて聞き返すと、彼女は首を振ってごまかした。


「何でもないわ。ふとした話から気づかれてしまうかもしれないでしょう」

「それは分かりますが」

「分かったら、逢わないようになさい」

「っ、お言葉ですが、主上の傍に仕えていらっしゃる方なのです。女御さまの居場所の心あたりを聞き出せるかもしれません!」


 寛高から得られる情報もあるはずだ。ここで彼を遮断するのは得策ではないと述べると、左近は絶句した。


「……驚いた。あなたはまだ、諦めていなかったのね」


 目を瞠った彼女がしばらくして溢したのは、たったそれだけだった。


「何なのっ! どういう意味よ、それっ!?」


 声を荒らげた沙那は、今宵も部屋を訪れた寛高を相手に、毒づいていた。

 あまりの暴言に呆気に取られているうちに、左近はそそくさと去ったものだから、噛みついてやることができなかった。中っ腹は収まらず、左近がその態度ならこちらも言いつけなど聞いてやるものかと、『寛高を遠ざけなくていい』と解することにした。


「大荒れだな」

「だって、信じられる!? 左近ったら『探す気もありません』みたいな態度だったのよ!」


 暇つぶしにと用意した双六の駒を動かしている寛高に『ちゃんと聞きなさい』と求めると、彼は眉間に皺を寄せて言う。


「……左近は、元々、左大臣家に仕えていて、東宮妃の入内に付き添ってきた女房だったな」

「よく知っているわね、その通りよ。だから、私、余計に悲しくなったの。あの子と付き合いも長いのに、薄情じゃないかしら、って」


 紗子が女御になってから仕え始めた浅い仲なら『主人がいなくなったなら関係ない。次の主人を探さないと』という事務的な考えも理解できる。

 だが、左近にとっては、紗子は主家の姫君ではないか。紗子だって、左近を頼りにしていただろうに、探されず惜しみもされていなかったと知れば、きっと悲しむだろう。


「仕方がないだろう。主家の没落に巻き込まれたくはないと思うのは普通の感覚だ」

「そうだけれど!」

「それより、梅壺の女御が香合わせを開くと聞いたが、どうするんだ?」


 ひらりと話題を変えられて、沙那はむくれたまま、間近に控えた催しを思い出した。

 帝のもう一人の妃である『梅壺の女御』から、女御と才ある自慢の女房を集めて香合わせをすると誘われたのだ。雅やかに見えてもこれは、梅壺の女御の実家である右大臣家と左大臣家の代理戦争である。当然のことながら『出ない』という選択肢は、与えられていない。


「どうする、って?」

「大丈夫なのか?」

「任せて。私、鼻が利くのよ。貝覆いの方が得意だから、その勝負ならもっと楽に勝てたと思うけれど」

「いや、勝ち負けの心配をしているわけではなく。……やっぱり、お前が承香殿の女御の代わりに出るんだな?」

「あっ!」


 語るに落ちた。慌てて口を覆ったが、寛高の顔に驚いた様子は無い。彼はとっくに気づいてはいたのだろうが、今のやりとりで確信させてしまっただろう。

 沙那はおずおずと切り出した。


「その……私が身代わりをすることには、気がつかなかったことにしてくれない?」

「お前が『承香殿の代わり』として出仕させられたことは、最初から分かっている。どうしても女御が出なければならない催しには、政敵に女御の不在を知られないために、身代わりに厚化粧でもさせて乗り切るんだろう、と」

「そうだけどっ、左近にも『絶対に秘密よ』と念押しされたところなの。お願い、誰にも言わないで!」


 考えたくはないが、寛高の口から『橘則実の娘が承香殿の女御と入れ替わっている』と広められては困るのだ。左大臣からトカゲの尻尾のように切り捨てられた父が、主上を謀った罪を全部擦りつけられてしまうかもしれない。

 必死に頼み込むと、寛高は渋るそぶりもなく頷いた。


「分かった。恩に着ろよ」

「何だか、とんでもない恩返しを要求されそうで怖いわ……」

「はは。優しい恩人に向かって何を言う」


 その笑顔は優しげだったが、先に『恩』を持ち出して意識させたのは彼である。まったく油断できない。


「何か不足は無いか? もしも準備が間に合わないなら、今回は承香殿に肩入れして手助けをしてやろうかと思っ……主上が言っていた」

「心配ご無用よ。こちとら、腐っても天下の左大臣さまが後ろ盾ですもの。逸品の香料ばかり取り寄せて調合した香は、とっくに遣水やりみずの近くに埋めてあるわ」


 香合わせの中には、それぞれが調合して持ち寄った香の優劣を競う『薫物たきもの合わせ』と、お題と同じ香りの香を当てる『組香くみこう』がある。

 香の優劣など、ほとんどは使った原料と調合法がいかに珍しいかで決まるのだ。香合わせのことを知った左大臣は金を惜しげもなく使い、珍しい香料を買い漁り、調香師から秘伝の配分を聞き出して書き送ってきた。

 沙那がする作業は、指示書の通りに、香料をすり潰して混ぜることだけだった。後は、香合わせ当日に最適な状態で出せるように、調合した香を入れた壺を湿った土中に埋めて熟成を待つだけでいい。


「そうか。せっかく用意したものが無駄になるのも惜しいから、お前にやろう」

「はぁ。ありがとうございます」

「もっとありがたがってくれ」


『助けは要らない』と断ると、寛高からぽいと小さな香壺こうごを渡された。

 これの出番は無いだろうが親切は受け取っておくかと頭を下げると、『そんな礼なら要らない』と言われる。いったいこちらにどうしろと求めているのか。


「それなら、警戒すべきは、梅壺の女御本人とその取り巻きだけということか。良かったな」

「そうね……ん? 何ですって?」

「あれはなかなか厄介だが、お前ならきっと乗り切れるだろう。応援している。主上も香合わせの様子を見に行くと言っていたから、頑張れよ」

「待ちなさい! 『警戒すべき』とか『なかなか厄介』ってどういうことなの!? 梅壺の女御さまたちは、そんなに強烈な方々なの!? ねえ、笑ってないで教えなさいってば!」


 不吉なことを言わないでほしい。

 もったいぶって答えない彼の胸元をぐいぐいと揺さぶっても、彼は妙に嬉しそうだった。

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