第1夜④
紗子の坐所、承香殿へと無事に入り込んだ沙那は、雑用に追われていた。
「宰相の君、お使いを頼まれてちょうだい」
「はーい、ただいま参ります!」
父が参議、唐風に言えば『宰相』だから『宰相の君』――これが、宮中での沙那の呼び名だ。あまりにも安直な名付けだが、他の女房たちも同じようなものである。
仮にも公卿の姫君である沙那が雑用を買って出ると、他の女房たちには恐縮されてしまったが、ここまで乗り込んできておいて何もしないのなら、三条の屋敷に引きこもって報告を待つのと何も変わらないではないか。せっかく得た内裏のうちを探る機会を無駄にはしたくなかった。
女房たちの中でも年嵩で皆のまとめ役を担っている『左近』という女房から、
(もしも、紗子が何かの事件に巻き込まれたとしたら、原因は何かしら。誰かの恨みを買っていたとか? 犯人は紗子と対立している人、いいえ、あの子自身というよりは小父さまの政敵……右大臣さまとか? でも、指示を出した人と実際に動いた人は別かもしれないわ)
この書類を届けに行くお使いだって、本当は、これ自体は大した用事ではないのだと左近は言っていた。大切なのは、内侍所の女官たちが主上と『良い仲』になっていないか偵察をすることだ、と。主上の秘書を務める内侍所の女官たちは、歴代、帝のお手つきとなることが多く、それを見越して、入内させるには身分が足りない家の娘や訳ありの娘の綺麗どころが出仕させられている――なんて、紗子の敵は、後宮の外にもたくさんいたということだ。
疑い出せば、誰も彼もが怪しく見える。宮中のしきたりも人間関係も知らない沙那には『どの人物がどういう行動をしていればおかしいのか』が分からないのだから。
(こんなことなら、小父さまに『犯人として誰を疑っているのか』を聞いてから来ればよかった……)
ふと『用意周到な左大臣なら、手抜かりなく教えておきそうなものなのに』という違和感を覚えたけれど、その疑問は日々の忙しさに押し流されていった。
(紗子のまわりには、日中なら女房たちがひしめいていたはず。左近さんも『朝起きたら女御さまはいなくなっていた』と言っていた。夜に、誰かが房に押し入って攫った? でも、夜なら、それこそ、紗子は主上に召されていたんじゃないかしら? 夜に召されて、まだ暗いうちに帰ろうとした帰り道を攫われた、とか……?)
分からない。斯くなる上は、夜に調べてみるしかない。
夜中、他の女房たちが寝静まった頃に、沙那は寝所を抜け出して、帝と妃とが夜を過ごす清涼殿の夜御殿へと向かうことにした。
「――おい、何をやっている」
「ひゃっ!」
当然のことながら、考えなしの突発的な行動は、すぐに見咎められてしまったのだけれど。
こそこそと清涼殿に向けて建物の軒先を進んでいた沙那は、鋭い響きの声に呼び止められた。
暗くてよく見えないけれど、黒色の
「なんだ? 見ない顔だな。新入りの女房か」
「……どうも」
「ここで何をしていた?」
「新入りだから、道に迷っただけです。もう戻ります。失礼いたします」
早口に言い置いて踵を返し、その場を離れようとすると、ぐいと袖を掴まれた。
「待て。何も咎めずに帰すわけがないだろう。何をしていたかと聞いているんだ」
ごまかせたらよかったけれど、やはり、怪しまれているらしい。
考えてみれば、沙那は帝の寝所に近づいていたのだ。何か危害を為すつもりかもしれないと、警戒されて当然ではないか。そもそも内裏では警備のために、宿直の殿上人や滝口の武士が置かれているのだから、おいそれと清涼殿に近づけるはずがなかった。
もう少し慎重に動くべきだったと、悔やんでも遅い。
「……月があまりに綺麗だったもので、と言えば許してくださいますか? 昔の歌人が『山が動いて沈む月を避けたらいいのに』と無茶なことを言って月を惜しんだのに比べれば、私が外に出て月を見るささやかな楽しみくらい、許していただきたいのだけれど?」
「在原業平朝臣の歌だな。平時なら咎めはしないが、下手に出歩いて鬼に攫われても知らんぞ」
「鬼?」
苦し紛れのごまかしに、意外なことに鷹揚に応じた男は、沙那が引用した歌物語の別の一篇を仄めかした。
それは、高貴な姫君を盗み出した男が、ふと目を離した隙に、姫君を鬼に食われてしまう話だ。まるで、ある夜、忽然と消えてしまった紗子のように――。
「宮中は物騒だ。まあ、物騒なのは昔からだが、この間は女が消えた。早く房に戻った方がいい」
「あなた、知っているの!?」
「え?」
「その、消えた女性のことが聞きたいの! 教えてくださる?」
彼は、紗子の失踪のことを知っているのだ。
部屋に戻るように脅かされても怯えるどころか、前のめりで迫り来る沙那に、男は涼やかな目をぱちぱちと瞬かせていた。
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