第1夜⑤

 雲の切れ間に差し掛かって、月明かりに照らされた男の顔は、思いのほか若く、秀麗だった。この若さで四位の位を与えられているということは、よほどの名家の出身なのだろう。……などと、見惚れている場合ではなかった。


「ちょっと、こっちに来てください!」


 月明かりを浴びているということは、周りからも見つかりやすくなるということだ。

 沙那が男をぐいぐいと暗がりへと引っ張ると、男は逆らわずに誘い込まれた。彼にも人目をはばかる事情があるのだろうか。


「話をする前に、一つ確かめたい。お前は、何者だ? どうして『消えた女』のことを知っている? 知った上で、さらに何を知りたがる?」


 彼が紗子の失踪を知る者だとしたら、そのことをおいそれと口にしてはならないことも分かっているはずだ。何故か事情を知っている見知らぬ女相手に、話をしてくれるはずもない。

 納得した沙那は、自らの身分を明かすことにした。


「私は、この度、承香殿に仕えることになった女房で、『宰相の君』と呼ばれております。参議の橘則実の娘です」

「則実の娘ということは、承香殿の女御の従姉か」

「はい!」

「なるほど、お前が……」


 男はまじまじと沙那の顔のあたりを見やると、眉間に手をやった。何か頭痛でもしたのだろうか。


「仕える主人がいなくなったのに、女房を増やしてどうする。左大臣め……」

「やっぱり! あなたは女御さまが消えたことを知っているのね?」


 沙那の名乗りを受けて真っ先に『承香殿』に食いついたのも、『承香殿の主人がいない』ことを知っているのも、『消えた女』が承香殿の関係者だと知らない限り、あり得ない反応だ。

 彼は、紗子の失踪の手がかりを知っているはずだ。――沙那の願いに応えるように、男は頷きを返してきた。


「ああ、もちろんだ。俺は、主上のことなら何でも知っているからな」

「まあ」


 随分な自信家だと驚いた。

 この時間にここにいるということは、彼は蔵人所くろうどどころの宿直なのだろうが、帝直属の部署に勤める蔵人とはいえ、『何でも知っている』と言えるほど、帝に心を許されているのだろうか。


「お若く見えるのに、信を置かれているのね」

「そうでもないさ。主上の言うことを逆らわずに聞くやつは少ないから、こうして俺が動くしかないだけで」

「それって、どういう意味……あっ!」

「ご明察。蔵人たちだって、主上直属の役職とはいっても、実際は左右の大臣の顔色を伺ってばかりだ。口の軽いやつに女御の失踪を知られれば、噂は一気に広まって、左右の入内合戦が始まるだろう」

「ひえ……」


 左大臣が案じていた未来を他の者の口からもあらためて聞かされて、沙那は恐ろしさに震え上がった。

 どれだけの姫君が帝の寵愛を争い、それぞれの実家が姫君を盛り立てるためにどれほどのものを投じるのだろう。景気のいい話だが、『帝の寵愛』という不確かなものに大きな賭け事をするなんて、狂気じみている。

 その愛憎の中心で、紗子はずっと戦っていたのか。


「俺には勝手な権力争いに付き合う暇も無ければ、妃を大勢迎えたところで身も保たん。……と、主上は言っていた」


 でも――男の語る『主上の言葉』を聞いて、一つだけ、『良いな』と思えることもあったのだ。


「でも、それなら、秘密を打ち明けられたあなたは主上から信頼されているってことだし、主上はやっぱり女御さまを愛してらっしゃるのね。主上が羨ましいわ」

「は? お……主上が羨ましい? 承香殿の女御の受ける寵愛が羨ましいというなら分かるが」

「ええ。だって――」


 帝の寵愛を受ける紗子は、女性の最高位を極めたと言っていい。でも、そんなことよりも、純粋に、誰かからそこまでの想いを勝ち得たことを、羨ましいと思った。

 それに――。


「主上は、数多の美姫を迎えるよりも、女御さまお一人を愛する方が望ましいと思われたのでしょう? 本当は早く会いたくてたまらないでしょうに、女御さまのお立場を慮って、ひっそりと戻ってくることができるように、信頼できる者に行方に探させて。それほど愛せる人と出会うことのできた主上も、羨ましいなって」


 沙那は今も恋を知らない。けれど、きっと、紗子も帝も、入内するまで恋なんて知らなかったはずだ。会ったことすら無かった相手と結ばれて、『さあ愛せ』と言われたって、無理だろう。

 そんな相手と互いをそこまで思いやれるようになって、愛を育むことができたなんて、素晴らしいことじゃないか。

 よほど前世で徳を積んでいて今世の巡り合わせが恵まれていたか、それとも、前世から結ばれるほどの強い絆があったとしか思えない。――沙那の絶賛を聞いて、男はなぜか少したじろいだように見えた。


『ひろたかさまーっ! どちらにいらっしゃいますか!』


 その時、遠くから、人の声がした。『ひろたか』という人物を探しているらしい。


「誰かが呼ばれているみたいね」

「ちっ。抜け出したのに気づかれたらしい」

「ああ、あなたなの? 宿直の途中だったものね。それは早く戻らないと」


 四位や五位の蔵人は持ち回りで宿直をして、内裏の警備に当たることになっている。形骸化しているとはいえ、さすがに長時間にわたって持ち場を離れれば、上役に叱られてしまうだろう。帝からの密命を帯びていることを明かせない以上、同僚にも心配をかけてしまう。

 酷く叱られないうちに帰った方がいい、と促すと、男は頷きつつも、なかなか足を踏み出そうとはしなかった。


「どうなさったの?」

「……また、お前と話したい」

「ええ、私も」

「だが、話すのは、承香殿の女御のことだ」

「ええ、それはもちろん……?」


 当然だ。そうでないなら、他に何を話すつもりなのか。

 見当もつかなくて首を傾げると、彼は少々苛立った様子で言い切った。


「お前との逢瀬ではないから、勘違いをしないように」

「っ、別に、勘違いなんてしてませんけどっ!? というか、なんで、そんな上から物を言うのよっ!?」


 心外である。

 彼の目には、沙那がそこまで出会いに飢えているように見えたのだろうか。失踪した従妹のことすら有望な公達との出会いのきっかけにしているとしたら、外道にも程があるではないか。そんな外道だと思われたということか。


「あなたねぇっ!」

寛高ひろたかだ。次の予定については、文を送る」


 沙那には言い返す時間も碌に与えずに、『寛高』と名乗った男は、ぷりぷりと怒り出した沙那の頭の上で、軽く手を弾ませると、夜闇の中に消えていった。


「何なの、あの人……」


 不満と疑問を込めた呟きに、答えは無かった。


「主上っ! ようやくお戻りになられましたか! あっ、また、私の宿直服を勝手に持ち出しましたねっ!?」

「うるさい、頭中将とうのちゅうじょう。あれほど呼ばなくとも聞こえる。俺の名前を大声で叫んでどうする、騒ぎを広めたいのか」


 それからさほど時を置かず、男は、蔵人所の長官を煩げにいなしながら、話を聞いていた。


「大声で『主上、どこにいらっしゃいますか!』と呼ぶよりは、お名前の方がまだましでしょうがっ! そもそもの話をするなら、主上がおとなしくしてくださればいいわけで! そりゃあ確かに、宮中には、主上が『寛高親王様』と呼ばれていた頃のお名前を知らぬ者もいないでしょうが」

「いたぞ」

「えっ?」


 寛高は、面影を思い出して、にやりと笑んだ。

 紗子に似通ってはいるが、瞳はぱっちりと大きく、やや目尻が上がっている。鼻は少しだけ低くて、全体の印象は若干幼く、勝気そうに見えた。ぷっくりとした唇が、今にも生意気な文句を吐き出しそうで。

 物分かりが悪いようにも見えなかったし、東宮の即位当時には彼女は十分に分別を持っていたはずだ。それでもその名を知らなかったという事実が示すのは、彼女が宮中にまるでということ。

 そんな女が、自ら宮中に乗り込んできた。おそらく、彼女の従妹を探す手がかりを得るためだけに、必死になって。――あれが、紗子が事あるごとに口にしていた自慢の従姉か。


「なかなか興味深い娘だったな」


 今宵の出会いは、久方ぶりに気持ちを上向きにしてくれた。

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