午後一発目の授業は本来ならば酒本が行っていたはずの英語で、つまりは新しい英語教師を雇い入れるまでの代役であるところの学園長が教壇に立っていたのだけれど、正直に言って授業のクオリティーは彼のほうが圧倒的に上だった。何なら赤空学園一と言っても過言ではないかもしれない。

 まず黒板に書かれる字がきれいで大きさもちょうどよくて非常に見やすい。説明も上手く、英語の発音もすばらしい。即興でユーモア溢れる問題を出したりして生徒の興味や集中力を途切れさせないし、勉強のできる生徒による重箱の隅をつつくような意地悪な質問にも、たとえそれが英語でなされたものであっても即答する。おまけとばかりに時折、やたらと人を惹きつける美声で洋楽を口ずさんだりもする。彼ほど、何この超ハイスペオヤジ、という困惑がふさわしい男もいないのではないだろうか。

 ちょくちょく助平な視線で視姦してくることに目をつぶることさえできれば、非の打ちどころのない授業と言えた。


 歩が、机に広げたノートにさらさらとシャープペンシルを走らせていると、視界の端に生白い手首がにょきっと侵入してきた。朱莉がメモを見せてきたのだ。

 そこには馬鹿っぽい丸文字で、


『あたしもマザコンホテル捜索に行きたい♡』


 とあった。マザコンホテルとは例の廃墟のことである。ハートマークの意味は? と問いただしたいところだったけれど、歩は、


『いいけど、どうして来たいの?』


 とだけ書いてメモを返した。返事が来るまでやや時間が掛かった。


『赤学の関係者が自殺したり殺されたりする事件が、ここ二箇月ほどの間に四件も発生している。これは偶然と片付けるには少し不自然。小杉君の自殺とほかの事件には何らかの関係があるとあたしは疑っている。彼の事件の真相が、栞莉を殺した人物へたどり着く手掛かりになるかもしれない。だから、あたしも行きたいの。』


 長っ。授業中の密談って量じゃないよ、これ。しかも急にシリアスモードになるしさ──あまりの落差に、人を操作できる超能力者にその特殊能力を行使されでもしたのだろうか? などと中二病めいたことを思ってしまう。

 ちらと後ろを見るも、当たり前だけれど、そこにSFちっくな不審者の姿はなかった。


「牛若君、どうかされましたか?」


 低く響くダンディーな声に呼ばれて顔を前に向けると、てらてらと脂の浮いた微笑をたたえた学園長が歩を見ていた。


「い、いえ、たいしたことじゃないんです」歩は若干つっかえながら答えた。「ちょっと超能力者が潜んでいるかもと思いまして」


 何言ってんだこいつ、という空気が教室を満たした。

 隣には、忍びきれなかった笑いの鈴をくすくすと転がす朱莉。

 歩は髪の毛を指で掻き回した。







 野球部も陸上部も練習がない日というのは珍しい。

 だから、放課後の、夕方になるかならないかというまだまだ明るい時分に制服姿の朱莉と武蔵が並んで歩く光景を見たのは、これが初めてだった。

 

「朱莉も行きたいってさ」


 歩からそう言われた武蔵は、眉をひそめかけたような中途半端な表情を一瞬だけ浮かべたけれど、歩の隣に立つ朱莉がカースト最上位に君臨する女王蜂クイーンビーであることに思い及んだのか、「りょーかい」と了承した。


 そして三人は、仲良く(?)マザコンホテルなる廃墟へ向かったのだ。


 三人の中で一番のおしゃべりは朱莉で、一番口数が少ないのは歩だ。ゆえに、彼女と武蔵の会話に時折、相づちのような短い言葉を差し入れるのが、歩のもっぱらの役割だった。

 国道へ出てしばらく歩くと、海のにおいがしてきた。

 海といってもきらきらの砂浜が広がる海水浴場ではなく、船を係留できるようにコンクリートで固められた岸壁が続く味気ないものだ。とはいえ、それでもやはり童心めいたわくわくが込み上げてくる。

 やがて今にも崩れそうな黒っぽい廃墟──ぽつねんと立つマザコンホテルも見えてきた。

 

 すると、武蔵が言った。「聞き込み捜査してみようぜ!」


 三人は岸壁沿いの国道脇の歩道にいる。船が泊まっているわけでも倉庫や廃墟以外の建物があるわけでもなく、見える範囲には釣り人くらいしかいない。


 ぐるりと周囲を見渡した朱莉が答えた。「全然釣れてなさそうな釣り人しかいないけどぉ? あのおじさんに聞くん?」


「おうよ」武蔵はいい笑顔でうなずいた。探偵っぽいことが楽しいのだろうか。


 三人は、折り畳み式の小さなアウトドア用椅子に座って微動だにしないで海を見やる背中に近づく。

 

「すいませんー、ちょっとお話しさせてもらってもいいですかぁー?」


 やけに手慣れた気負わぬ調子で釣り人のおじさんの背中にそう尋ねたのは、人好きのする柔和な笑みをたたえた朱莉だった。人見知りという言葉は彼女の辞書にはないのかもしれない。


「んあ?」間抜けな声と共に振り返った釣り人のおじさんは、赤空学園が誇る最強爆乳美少女の微笑が自身に向けられているのを認めると、感嘆するように、「あやぁ~、こりゃまたかわいいめんこい女子おなごだごど」と東北訛りの強い言葉を洩らした。彼は実りに実った二つの果実をちらちらと気にしている。


 見られていることに気づいたらしきその視線が、ルビーのように真っ赤に透き通る歩の瞳に触れた。おじさんは、気恥ずかしく思ったのだろうか、逃げるようにさっと目を逸らした。

 

 当の朱莉はそんなことには慣れっこなのか気分を害したふうもなく、かえってしなを作って、「実はあたしたちぃ、マザコンホテルで起きた自殺事件について調べてましてぇ──」


 武蔵が、聞き込みの主役を取られてたまるかとばかりにその先を引き継ぐ。「赤空学園の男子生徒が拳銃で自殺した事件のことはご存じっすよね? 何か知ってたりはしないっすか?」


 おじさんは武蔵に対しては、かわいいだのかっこいいだのといった反応は特に何も示さずにふっつーに応対する。「事件のごどは何も知らねども──」とやや含みのある語尾。


「何の関係もなさそうなことでも構わないので、教えていただけませんか?」と歩。


 少しためらうような様子──一瞬の間の後、おじさんは答えた。「見だんだ」


「何をですかぁ?」と、あざとく小首をかしげる朱莉。


「人魂だよ」おじさんは怖そうに顔をしかめてそう口にした。


「人魂というと、幽霊のことですか?」歩が聞き返した。


「んだ」おじさんは大真面目な面持ちでうなずいた。


「マジすか」と驚きを浮かべる武蔵。


「ああ、その夜はスズキを狙ってたんだども、あの廃墟の六階か七階の辺りで、こう、光がちらちらしてで、そんで、ゆらゆらと下りでったんだ」


「それはいつの話ですか」歩は尋ねた。


 小杉が行方不明になったのが、つまりは死亡推定時刻が七月九日(火)。その日だったのなら関係があるかもしれない。


「んん、いづだったかねぇ……」おじさんは考えるようにうなり、「ああ、九日だな」


 歩たち三人は顔を見交わした。

 これは重要証言なのでは?

 歩の赤眼に映る、くりくりの四つの眼球がそう言っていた。もちろん歩もそう思う。

 その一方で心の片隅には、まさか本当にマザコンに殺されたバブみ少女の霊がいたりしないよね? と恐怖する自分もいた。

 思わず、まなうらにその凄惨な姿を幻視する。


 幼くとも十分に母性的な乳房をまるまる削き落とされて黄色い脂肪とどす黒い血にまみれた、白っぽい肋骨が覗く平らな胸部、どろどろの白濁液が伝う土色に変色したもも、深い絶望にあらゆる光を奪われた虚ろな瞳──そんな年端も行かぬ少女の霊が、際限なく膨れ上がりつづける男という性への憎しみに突き動かされて夜な夜な廃墟を徘徊している……。


 怖っ。


 バブみ少女猟奇殺人事件自体は実話だ。三十年以上も前ではあるけれど、確かに存在したのだ、尊厳を破壊された少女の苦痛が、絶望が、怨念が。


 少女の霊が小杉を殺した? 


 そんなのはありえない、非科学的だ、馬鹿げている──そういう意見ももちろん正しいと思う。実際、歩も、幽霊が人を殺したという話は娯楽用の怪談以外では聞いたことがない。

 しかし、実際にその少女の霊がいたとして、彼女が小杉を目にしたらどう思うだろうか? とついつい考えてしまう。

 のこのこと目の前に現れた無防備な少年が、女を殺し、徹底的に顔を潰し、挙げ句の果てに膣内に精が収まらぬほど何度も屍姦したことをスゥパァゴゥストパァワァで察知したとしたら、と。

 何とかして殺そうとするのではないか。

 例えば、取り憑いて体の主導権を奪い、銃口を自身のこめかみに当て──。


 ──パァン。


 壊れた笑みを張り付けて躊躇なく引き金を引く小杉の姿が、いやに鮮明に脳裏に浮かんだ。


 ないよね? 勘弁してよ、マジで。




◆◆◆




【ヒント⑤】

 ヒロイン及び小杉啓太殺しの犯人は生きた人間であり、幽霊ではない。つまりはヒトコワであるゆえ、ご安心を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る