⑥
三人が雁首を揃えて見上げるその廃墟は九階建てで、一見ただのビジネスホテルのようにも見える。時の流れの中で文字の大半が欠落した看板にかろうじて残った『休憩』の二文字だけが、そこが股ぐらの粘膜をこすり合わせるための施設であったことを証していた。
元は白かったのだろう外壁は黒く汚れて所々崩れ落ちているし敷地の至る所に雑草が生えて好き勝手に繁茂しているしで、これぞ悪霊住み着く心霊スポットといった趣だった。その種の趣味の人には垂涎ものに違いない。
警察官はいなかった。
ぬるくねとつく海風が吹いて三人の髪がうち揃って横に流れると、誰からともなく足を踏み出した。
中は当然、電気が通っておらず、薄暗い。
ので、懐中電灯のスイッチを入れる。
懐中電灯はちゃんと三人分ある。武蔵が用意していた二つと、女子には、特に朱莉のような性的美少女には砂糖菓子よりも甘い学園長に頼んで学校から借りたのが一つだ。
埃っぽい建物内はしんと静まり返っていて、足元の状況も悪い。夜には来たくない、いかにもお化けが出そうなおどろおどろしい雰囲気だった。
カツカツと硬質な靴音を響かせて階段を上り、くだんの自殺部屋のある六階に到着した。ネット記事やテレビニュースによると、小杉が自殺したのは六〇六号室だという。
その部屋のドアは閉まっていた。古い建物によくある丸っこいドアノブ──ステンレスの握り玉には鍵穴が付いている。カードキーではなく差し込むタイプらしい。見た目は歩のアパートの玄関扉が近い。
顔を寄せて、潔癖症の人なら絶対に触りたくないであろう錆の浮いた汚らしい握り玉の鍵穴を観察する。針で引っ掻いたような
「何してるわけ?」武蔵に聞かれた。
「ピッキングの跡は残ってるのかなって思って」それから歩は、どちらにともなく尋ねる。「ピッキングって閉めることもできるんだっけ?」
「できるっしょ」「できるよ」武蔵と朱莉の声がきれいに重なった。
「じゃあさ──」と歩が言おうとするのを、
「でも、その探偵が言うには、彼がここに来た時にはピッキングの跡はなかったらしいよ」と朱莉が制し、
武蔵も、「そそ、だから密室殺人だったとしてもピッキングで施錠したっつー何のおもしろみもないトリックはありえないわけ」
「あ、うん」歩は痒くもないこめかみをぽりぽりと掻いた。「何かごめん」
ピッキング説は一分ほどでその命を終えてしまった。ご愁傷様(?)である。
武蔵はスクールバッグから軍手を取り出した。歩と朱莉の分もあるようで、「ほい」と言って渡してくれた。
準備がいいな、と感心する。流石、最強チートイケメン名探偵こと神津恭介を推しているだけのことはある。
全員が軍手を着用しおわると武蔵は、
「ほんじゃ、ま、中、調べっか」
と言って無造作にドアノブを握り、回した。
と、そのちゃちな扉は問題なく開いた。施錠はされていなかったようだった。
内側のドアノブには施錠用のつまみがあり──これも歩のアパートと同じだ──自殺又は自殺偽装の際にはここをひねって密室を作ったのだろうと思われた。
懐中電灯の円錐形の光を室内のほうへ向けた。舞う埃が浮かび上がった。
歩は顔をしかめた。この中に突入しなきゃいけないのか。やだなぁ。
しかし、男らしく先陣を切って入っていった武蔵を置き捨てて帰るわけにもいかない。歩も続く。
部屋は広く、中央には大きなベッドの残骸があった。ベッドの上には原形を留めているだけのボロボロのマットレスがある。愛欲の面影は、その残滓すら感じられない。
ベッドに近寄ってみると、マットレスに赤黒い染みが広がっているのが見て取れた。小杉の血だろう。
振り返ると、朱莉が消えていた。
「あれ、朱莉は?」武蔵に尋ねた。
「あっち」と武蔵は入り口横の縦穴──開きっ放しのドアを指差した。「朱莉は風呂とか見てるわけ」
なるほど、と納得すると同時に出てきた朱莉に、「何かあった?」と歩は尋ねる。
やけに明るい金髪の朱莉は、しおれた向日葵みたいな様子でかぶりを振った。「怪しいものは何も」
そういうものは警察が回収しているのだろう。仕方のないことだった。
続いて、三人は奥の壁にある窓を調べた。割と大きく、夕闇に暮れゆく赤空の町とゆらゆらと波打つ海が見える。
ガラスの嵌まっている
框には錠前──施錠用のつまみも備え付けられている。つまみは〈開〉のほうを向いていて、現在は施錠されていないようだった。
レバーハンドルを掴んだ武蔵が、グイグイと力を込めてガタガタ言わせると、ガコンッという音がして窓がギギギと外側に開いた。
が、全開とはいかず、小学生でも通れないほど──具体的には十センチ強ほどだろうか、猫なら通れるかなという程度しか開いていない。落下防止のストッパーのせいだった。框と窓枠を繋ぐようにネジで固定されている。
しかしそれでも、ぶわぁーっと潮風が吹き込んでくる。それに流されるように視線を朱莉のほうへやると、彼女は顎に手を当てて何やら考えている様子。
どうしたの、と尋ねられる前に彼女は口を開いた。「遺体発見時にこの窓が施錠されてたか二人は知ってる?」
「どうだろ?」歩は首をひねる。「テレビでは『人の通れない窓』としか言ってなかったと思うけど」
「オイラもわからん」しかし武蔵は、「でもこれってそもそも閉められるわけ?」と言うと窓を閉め、施錠用のつまみを回して〈閉〉のほうへ向けた。「……何か変な手応え」
もしかして、とつぶやいた武蔵は、施錠したままレバーハンドルを上げて窓を押す。すると、先ほどと同じようにガコンッと鳴ったかと思うと、普通に開いてしまった。
「鍵がイカれてるわけ」武蔵は小さく肩をすくめて言った。
「──密室の作り方、わかっちゃったかも」不意に朱莉がそんなことを言い出した。
「ホントに?」と歩。「マジで?」と武蔵。
うん、と朱莉は顎を引いた。とはいえ、「たぶん」と自信なげ。「小杉君の自殺が偽装されたものかは何とも言えないんだけど、他殺だったとしたら犯人はこの窓から脱出したんだと思う」
「そんなんできるわけ?」武蔵は懐疑的だ。十センチちょっとしかない隙間から宵闇に覆われはじめた地上に視線を送り、「通れないし、下りれなくね?」
「下りるのはロープでも使えばできるよ」朱莉はそれが誰にでもできる簡単な犯行であるかのようにさらりと答えた。
「できるかぁ?」武蔵は首をかしげた。「結構むずくね?」
「登山家がやる
「まぁそう言われれば」武蔵の口ぶりは、しぶしぶ受け入れたというようなすっきりしないものだった。
朱莉は続ける。「それに、ほら、釣り人のおじさんが言ってた人魂の光あるじゃない? それを犯人が使ったライトだったと考えると、そんな気してこない?」
「つまり、ロープで下りる時に使ったヘッドライトとかの光だったってこと?」歩も合いの手を入れる。
「そうそう」と答えて朱莉は、「あとは通り方だけど──これ」と開閉制限のストッパーを指し示し、「これを外せばいい。ネジで留められてるだけだから簡単に取り外せるはずだよ」
なるほど、たしかに理屈のうえでは可能かもしれない。
朱莉の推理を基に犯行を整理してみる。
まず犯人は下準備として、この六〇六号室の上の部屋の窓からロープを垂らし、室内から見えないように窓の脇の外壁にガムテープなどで貼っておく。
そして、小杉を呼び寄せて銃殺。その後、内側から玄関の鍵を掛けると、窓のストッパーを外してロープを頼りに窓の外へ。懸垂下降用の器具を使ってぶら下がったままストッパーを元どおりに取り付ける。あとは、地面に下りていき、ロープなどの証拠を回収し、立ち去る。
……人によってはできなくはないかも。
というのが歩の正直な感想だった。できない人のほうが多そうだな、と。
「うーん、まぁその可能性もあるのか。でも、このネジ錆びまくってるし、握力お化けでも回せなそうじゃね? 無理やりやると十字穴が潰れそうだし」やはり武蔵は納得しがたい様子。からの、「──あ、そうだ」と何かをひらめいたような声。
「何さ?」「何々?」と歩と朱莉が目をやると、武蔵は、「へへっ」と悪戯小僧のような得意げな顔になりスクールバッグに手を入れた。そして、「じゃじゃーん」と自前の効果音を口ずさんで取り出したのは、プラスチック容器に入れられたカラフルなドライバーセットだった。「回せるか試してみるわけ!」
「……」歩は感心していた。「何でも入ってるね」と武蔵のスクールバッグをまじまじと見る。パンパンに膨らんでいるわけでもなく、その装いは歩たちのと変わらない。まっこと摩訶不思議である。
「四次元スクールバッグなの?」朱莉も妙な便利アイテムを創造してしまう。
「教科書もノートも入ってないからな!」武蔵は清々しい笑顔で元気に答えた。
あきれを通り越して感心するというのはたまにあるけれど、感心から踵を返してあきれに立ち返るというのは希少だろう。実際に経験してみて思うのは、別にありがたくはないな、ということだった。
閑話休題。
武蔵は十字穴にプラスドライバーを合わせ、そして回そうとする。しかし──、
「かったっ」
首筋に血管が浮かぶばかりでびくともしない。武蔵は諦め悪く両手で試みるも、やはり駄目。ついには滑って空回りする始末。
「オイラには無理だわ、これ」
今度は、「ちょっと歩がやってみて」とドライバーを渡された歩が挑戦する。が、結果は同じ。十字穴が更に少し潰れてしまった分、後退していると言ったほうがいいかもしれない。
歩と武蔵が二人して朱莉に顔を向けた。
彼女は、「じゃあ違うのかな?」と自問するように言い、次いで、「でも、これくらいなら接着剤でも使えば偽装できそうだよね?」と歩たちに尋ねた。まだ自説を諦めきれないようだ。
「そうだけど、仮に犯行方法は朱莉の言うとおりだったとして、まだ問題はあるよね?」歩は言う。
「そそ」武蔵が続く。「小杉や現場には争った形跡がなかったわけ。真の名探偵なら、拳銃を持っていたはずの小杉がそれを使って抵抗もせずにおとなしく殺された理由と犯人の動機、あと二人の関係も一緒に推理しないといけないわけ」
その挑戦的な物言いが
「そんなものはないわけ!」やはり武蔵は、爽やかに断言した。とんでもない、いっそあっぱれな開き直りっぷりである。
歩と朱莉は困り眉を見合せ、同時に苦笑した。
その後もしばらく調査してみたけれど、結局、決定的な手掛かりは何も見つからなかった──当然、上の部屋も調べたが、すでに警察の捜査が入った後のようで、複数の足跡が入り乱れ、そこにある痕跡が警察によるものなのか犯人によるものなのか判然とせず、そもそも彼ら以外の第三者や動物によるものの可能性もあり、確実なことは何もわからないという
それは取りも直さず、自殺か他殺かすら確定できないことを意味する。
帰りに寄ったファミレスでカルボナーラを巻きながら朱莉は言った。
「あれは密室殺人としては不可能性が脆弱すぎる。仮に他殺だとすると、犯人は完全無欠の不可能犯罪として迷宮入りさせることまでは求めてないんだよ。赤空市の警察に自殺として処理させることだけが目的だったんだと思う。多少の疑いが残ったとしてもね」
ふと思う。このメンツだと武蔵がワトソンで、朱莉がホームズだな、と。
「朱莉って小説の名探偵みたいだね」と歩が言うと、
何がおかしいのか、「あゆちんの皮肉だー」と朱莉はけらけら笑い、
武蔵は不満そうに、「朱莉はどう考えてもお色気担当なわけ」とフォークをハンバーグにぶすり。
何それひどー──朱莉の黄色い声が更に笑う。
少しは気を紛らわせられたかな、と歩は思う。そうだったらいいな。
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