④
酒本が無断欠勤したらしい。
酒本と懇ろになってから十二回目の朝のことだった。SHRの時間になっても教室に彼女は現れず、代わりに、暇だったのか浅黒い肌のハゲオヤジ、学園長がやって来て、そう伝えてきたのだ。
酒本先生は一身上の都合により今日はお休みです、とでも言えばいいのに、わざわざ無断欠勤と言う辺りそうとうお冠なのかもしれない。大人は大変だなぁ、と思う。
今日は浅黒ハゲ学園長が酒本の代役をこなすそうだ──彼がそれを口にした瞬間、教室の空気が変わった。歩にはそう感じられた。隣の朱莉をはじめクラスの女子たちから不満げな吐息が聞こえてくるかのようだった。
理由は明白だった。学園長が女子連中から
どうやって故意だと判断したのか、本当に偶然なのではないか、
つまり、学園長は浅黒ハゲオヤジではなく浅黒ハゲセクハラオヤジなのだった。
七月になり本格化しはじめた夏の青いきらめきが、教室に差し込んでいた。
学園長は出席簿を取り出し、しかし開いて出欠を取るでもなく、「今朝、小杉君のお母様から電話があったんだが、昨夜から小杉君が行方不明なんだそうだ」と内容の割に淡白な軽い口調で言った。「心当たりのある者はいるかね?」
さぁわかりません、というように小さく首を傾けて歩は答えた。すべてが嫌になって家出でもしたのだろうか。
なんて呑気なことを考えながらも、歩の心は胸騒ぎに囚われて不快な軋み音を鳴らしていた。怖い。
どうして?
が一番最初に来て、それを追いかけるように怒りが湧き上がってきて、そして最後に悲しみが広がった。
『──警察は怨恨による犯行と見て、捜査を進めています』
小さな液晶画面の向こうで例の地元出身の悪趣味な女子アナが、この事件は彼女の性感帯、もとい琴線に触れなかったのか、真面目腐った面持ちを崩さずにそう言って締めくくった。
虫たちの奏でる密やかな旋律に満ちた美しい夜だった。
シャワーを終えてこぢんまりとした居室に戻ると、点けっ放しのテレビが新たな殺人事件の発生を伝えてきた。フローリングに無造作に置かれた安物のアナログ式の置時計は、午後十一時十八分を指し示していた。秒針の音が耳障りだった。
事件の概要はこうだ。
今日の午後六時ごろ、女性──酒本清香の銃殺死体が発見された。
第一発見者は、酒本と連絡が取れないことを不審に思って酒本宅を訪ねた元交際相手の男性(二十代市役所勤務)。呼び鈴を鳴らしても返答がないにもかかわらず玄関扉は施錠されておらず、彼女が何らかの事件に巻き込まれた可能性を危惧した彼は、酒本宅に踏み入り、映画鑑賞用の防音室で血を流して倒れている全裸の酒本を見つけ、通報した。そして、駆けつけた警察官により死亡が確認された。
銃弾は頭部と胸部に一発ずつ撃ち込まれていた。また、顔は身元の判別が不可能なほど潰されており、その傷に生活反応がなかったことから死亡後に鈍器で何度も殴られたものと見られる。さらに膣内には精液もあり、犯人に屍姦されたようだった。
また、現場から発見された銃弾の
なお、酒本のスマートフォンは台所の電子レンジの中から見つかった。加熱されて物理的にデータが破壊されていたという。
何でこんなことばかり起きるんだろう?
歩は納得がいかない。どうして自分ばかりがこんな目に、などと根拠もなく他人の状況を決めつけたナンセンスな相対悲観はしないけれど、優しくほほえみかけてくれる女性がこうも立て続けに亡くなると、呪われているのではないかと思いたくもなる。
古いアパートにふさわしい旧式のエアコンがごうんごうんとうなりを上げて吐き出すカビくさい冷風が、歩の肌を冷やす。
ぶるるっと体が震えた。少し肌寒いかもしれない。
と、その時、バラバラに保管されている記憶の断片を結びつける推理が、歩の脳裏に唐突に降ってきた。
──犯人は小杉啓太ではないか。
「ここから見える景色が好きなんだ」
小杉がそう言っていたのは、血飲川の河川敷公園だった。
そして、例の心中警察官の遺体が発見されたのも同じ場所。すなわち、
──拳銃は小杉が持ち去ったのではないか?
ということである。
河川敷公園に足繁く通っている小杉は、心中事件があったその日もそこを訪れた。そして拳銃を見つけ、こんなふうに思ってしまった。
──これを使えば今まで自分を苦しめてきたやつらに簡単に復讐できる。
魔が差した。そういうことなのではないか。
「酒本先生だって見て見ぬふりだし」とも彼は言っていた。
酒本への恨みつらみは、いじめの実行犯に対するものよりも深かったのだろうか。……深かったのかもしれないな。
助けてくれるものだと信じていたのに裏切られたときに感じる絶望や怒りは、相当なものだろう。期待すればするほど、信じれば信じるほど、その落差から負の感情は強く、赤く、黒くなる。抗えぬ道理だった。
──ピッ。
歩はリモコンを操作して設定温度を上げた。風が弱まる。
しかし、なぜスマホが破壊されていたのだろうか……。
次に殺されるとしたら、それはいじめっ子たちだろう。
漠然とそんなふうに思って過ごしていたのだけれど、違った。遺体となって発見されたのは小杉だったのだ。
赤空市の海沿いの国道、そのほとりに打ち捨てられたラブホテルがある。古くからの地元民でさえいつ廃墟になったのかにわかには答えられないくらいには昔から廃墟だったらしいそこの六階の客室に、小杉の遺体はあった。
発見したのは彼の両親が息子を見つけるために雇った私立探偵だった。聞き込み捜査をしたその探偵は、小杉の目撃情報からそのラブホテルが怪しいと目星をつけ、そして発見に至った。
その部屋のドアは施錠されており、もちろん鍵なんてものはすでに存在せず、そして窓も人が通れるようなものではなく、すなわち密室であった。
その箱の中で小杉は、ベッドに座ったまま後ろに倒れたような体勢で死亡していた。争った形跡はなく、傍らにはなくなっていた拳銃が転がっていて、彼はそれを使って自分の側頭部を撃ち抜いたようだった。
そう、つまりは自殺である。
歩が推理したとおり酒本を殺した小杉は、自らのしたことをひどく後悔し、自死をもって罪を償うため、あるいは罰から永遠に逃れるために引き金を引いた──と、酒本の膣内から検出された精液のDNA型と彼のそれが一致したこともあって、そんなふうに警察は判断したようだった。
が、それに異を唱える者がいた。赤空学園の名探偵もどき、武蔵慶その人である。
「これは密室殺人に違いないわけ」
遺体発見から数日経っているけれど、武蔵は一貫してそう主張していた。
曰く、「何でそんな所で自殺するわけ? しかも、わざわざ六階まで上って鍵まで掛けて。ただの自殺ならそんなことしなくね? しかも、防音のしっかりした客室で。作為的なものを感じるわけ。この事件は絶対に他殺。オイラの心の中で安楽椅子に座ってキセルを吹かしてる名探偵もそう言ってるわけ」だそうだ。
「でも、どうやって密室を作ったのさ? 無理だよ。それこそ幽霊の仕業とでも考えないと説明できないと思うけど」歩は反論した。
こういう田舎の廃墟にはありがちなことだけれど、幽霊が出るという噂があった。マザコンの猟奇殺人鬼に〈何となく
なお、地元民にはすでに飽きられたネタであり、心霊スポットとしての魅力は賞味期限切れ、わざわざ肝試しに訪れる者は皆無である。
揶揄の色をたたえた武蔵は、「オカルト熱がぶり返してきたわけ?」と言ってくる。
部屋の隅に積まれて埃を被った心霊本の残骸が、歩の脳裏に浮かんだ。「そういうわけじゃないけど」
「ほーん」武蔵はあまり信じていなそうな顔をしている。が、不意に、「ま、いいわけ」と中立的な表情になり、「そんなことより歩は今日の放課後、予定あるか?」と尋ねてきた。
今は昼休みで、ここは教室。歩たちのすぐ隣では朱莉のグループがきゃいきゃいと姦しくしている。
「ないよ」と歩は答えた。
「じゃあ今日は肝試しだ!」
「はぁ?」
「真相解明のために現場を
たぶんなんだけど、それは当たり前じゃない。
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