③
歩は何も見なかった。目尻に涙を溜めて苦しげに喘ぎながら嘔吐する、弱り切っていそうな、哀れを誘う女なんて知らない。
そういうことにするのが一番いいような気はした。このまま孤独の小部屋に帰って、体に良くなさそうな割高カップ麺を食べて、そして安らかに眠る──うん、悪くない。
でも──。
歩の知る酒本清香という女教師は、常に生徒と一定の距離を保ち必要最低限の仕事だけを淡々と行う、美人なのにあまり笑わない、そんな隙も愛想もない女だった。こんなみっともない姿をさらす人間じゃなかったはずだ。
出すものを出しきったのか酒本の口からは涎が垂れるばかりで新たな具は見えない。しかし彼女は、壁に手を突いた体勢のまま、地面にぶちまけた吐瀉物を呆然と見つめている。
──こんな姿を見せられると、何かあったのだろうか? と疑わざるを得ない。そうなると、なけなしの後ろめたさがにゅっと顔を出してきて、放置するのは善くないよ、とささやいてくる。かわいそうだよ、と。
歩は、ふぅと息を一つつき、それから酒本のほうへ歩を進めた。
「大丈夫ですか?」歩は尋ねた。
見るからに大丈夫じゃなさそうな人に掛けるべき言葉ではなさそうではあるけれど、実際問題、そう尋ねるよりほかはないようにも思う。たぶん日本語の重大な欠陥の一つだ。
酒本は怠そうにゆるゆると首をひねって、優しく背中をさするでもなくぼさっと突っ立って返答を待つ歩に顔を向けた。
「……」長いようで短い沈黙の後、酒本は悲痛な顔で、「ぅぅ」うなるような声を出し、「わた、わたし、もうらめなんれしゅ……」回らない呂律で言った。酒くさい。
「何が駄目なんですか。酒本先生は駄目じゃないですよ」
「ぅぅ」酒本はまた低く揺れる声。「牛若しゃんっ」
突然、機敏な動きを見せて酒本は、すがりつくように歩に抱きついてきた。けっして太っているわけではないのに、むにっとしていて女らしく柔らかなその肢体は、夏の熱気にも負けない熱い火照りを帯びてじっとりと湿っていた──うん、だいぶ酔ってるね、この人。当然、酒くさい。
目と鼻の先にある酒本の野暮ったいひっつめ髪を見下ろしながら歩は、彼女の背中へ腕を回した。抱きしめはしない。ただ添えるだけ。そのまま、
「いったいどうしたんですか?」と尋ねる。「らしくないですよ」
「わたしみたいにゃつまんにゃい女は嫌だってぇ、もう終わりにしたいってぇ」と予想どおりなことを涙ながらに口にした酒本は、歩の鎖骨の辺りにぴたりと頬を寄せている。「結婚してくれるって約束したのにぃ」
「振られちゃったんですね」と言う歩の声は、酒本の耳にはどのように聞こえているのだろうか。「ぼくと同じですね」
言葉の意味を咀嚼するような短い間の後、酒本は顔を上げ、「……おにゃじ?」と上目遣いに尋ねてきた。
「ぼくも独りになっちゃったって意味ですよ」
「あっ……」
曖昧に狼狽するような微弱な揺らぎを腕の中に感じ、歩は、くすっと微笑した。「そういう気遣いをする余裕はまだあるんですね」よしよしと酒本の頭を撫でる。いい子いい子、と。
擬態語で表現するなら、あうあう、とでもいうような動揺を酒本は見せた。そして、「歩君みたいにゃ子が彼氏だったらよかったにょにぃ~」などと言い出した。「わたし、これでも尽くしゅ女なんれすよ~? 歩君のおちんちんに尽くしゅ女なんれすぅ~。らから、わたしの旦那しゃまになってぇ~」
「酔ってますね、かなり」
歩君、なんて呼び方をされたのは初めてではないだろうか。そのほかも総じて意味不明だし。
「酔ってないれすよ~? わたしは正気れすぅ~」
酔っぱらいはみんなそう言うんだよ。酔っぱらいと絡んだことはほとんどないけれど、歩はそう確信している。「はいはい、よかったですね」とあしらう。
「信じてにゃいれすね~?」
「それはそう」
「らめれすよ~、信じてくれにゃいと内申点ゼロにしちゃいますよ~?」
「たち悪っ」
えへへ。酒本はそれこそ信じられないくらいふやけた笑みを零した。かと思ったら、「隙ありぃ~」などとのたまって歩の首に手を回し、
──ちゅっ。
その唇を啄んだ。
ふぇっ?! と驚愕と困惑が胸裏で吹き荒れる歩に追い打ちを掛けるように酒本は、
──ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……。
それが彼女の好きなやり方なのか、唇の表面を重ねるだけのバードキスを繰り返す。ふにっ、ふにっとした優しくも官能的な感触に妙な気分になりそうにもなる。
「ちょっ、ちょっとストップ!」そう言って歩がやんわりと肩を押し戻すと、
「わたしのことしゅきににゃってくれたぁ~?」と色気を帯びた酔眼が見つめてくる。
「なってるわけないですね」
「えぇ~、にゃんでぇ~? しゅきににゃってくれるんにゃらぁ、わたしのにゃかにおもいっきりびゅっびゅっしてはらましぇてもいいんだにょ~?」酒本は歩の腕の中に滑り込むようにして体をしなだれかからせてくる。「けっきょんしたりゃいっぱいあかちゃんつくりょうにぇ~」
言ってることめちゃくちゃだし、口も酒くさゲロくさだし、もう最悪だよ! ゲロアルちゅーはノーサンキュー!
と、またしても唐突に、酒本は静かになり、ずり落ちそうになる──咄嗟に腕に力を入れて彼女を抱き留めた。
「酒本先生?」という呼びかけに対する返事は、
「すぅ……すぅ……」という憎たらしいほど穏やかな寝息だけだった。安心したような平らかな顔で眠っている。
「マジかこの人……」憮然として歩はつぶやいた。「自由人すぎる……」
どうすんのこれ?
歩は夜空を仰いだ。星が見える。が、苦しみ絶望する人間たちを観賞して気色悪い薄ら笑いを浮かべて
女という厄介で生々しい現実に顔を戻すと歩は、酒本のデニムへと手を伸ばした。外側からポケットをまさぐる。と、すぐに硬い膨らみを探り当てた。生地の隙間に手指を差し入れ、それを引っぱり出す。黒の革財布だ。比較的に広い世代の女性から支持されているブランドのものだった。その中をあらため、一枚のカード──免許証を取り出した。
田舎らしく公共交通機関が充実していない赤空市は、必然的な車社会なので、常に──今のように徒歩移動の際にも免許証を財布に入れて携帯していても不思議はない。
免許証には当然、住所も記されている。このラフな格好で歩いてきていたことから、近くなんだろうなぁと推測していたけれど、案に相違せず、普通に近所だった。酒本の家は歩のアパートとコンビニを挟んで反対側の地区にあり、とはいえ歩のアパートからでも徒歩で十分も掛からないだろう。
もしも酒本の言うように二人が付き合えば、一箇月もしないうちに頻繁に行き来する半同棲のような形になりそうだ、体の寂しさとは無縁のただれた生活だな──なんて、ちらと覗いたその考えを鼻で嗤う自分の声が頭の奥から聞こえた。
歩は免許証と財布を戻して酒本のレジ袋をも手に提げると、すると自分の分と合わせて二つになるわけだけれど、そのまま彼女を、「よいしょっ」と背負った。ぐてっとした重さと、ふにっとした温かさが背中にのしかかってくる。
そして歩は、酒本の自宅のほうへ足先を向けた。てくてくと歩を進めるたびに、揺れるレジ袋からガサッ、ガサッという音が鳴る。
帰宅部ながら歩の身体能力は高い。したがって痩せぎみで平均的な身長の酒本ぐらいならそれほど骨は折れないけれど、押しつけられて密着する柔肌に劣情を刺激されつづけるのは少しつらい。背中に当たって押し潰されている柔らかな双丘に、つい意識がいってしまう。
赤信号の横断歩道を横目に車の疎らな四車線の道路を突っ切り一本入った道を行くと、程なくしてそれらしき一戸建てを発見した。
比較的に築年数の深そうな木造建築に見えた。灯りが洩れている窓もあるが、人の気配は感じない。家の前の、簡素な屋根があるだけのカーガレージには、二台分のスペースに軽自動車が一台だけ駐まっていた。
両親から相続した家に独りで暮らしているのかもしれない。そうだとすればとても寂しいだろうな、と思う。
歩のアパートは狭いから
それが理由だろうか、まだ二十五歳の酒本が結婚を切望するのは。
──いやまぁ、酔っぱらいのたわ言を真に受けるのもどうかと思うけど。
「酒本先生、酒本先生、おうちに着きましたよ」歩は背中の酒本を軽く揺すって呼びかけた。「早く起きてください」
「うにゃうにゃ……」酒本は
「……早く起きないと離婚しますよ」いや結婚なんてしていないのだけれど。「離婚届、出しちゃいますよ」
「……り……こん……?」……おや!? 酒本の様子が……!「駄目っ! わたしのお腹にはあなたの子がいるのよっ?! 嫌っ! お願いっ、捨てないでっ!」彼女は時間も弁えず、しかも歩の耳元で喚くように発した。
その声は歩の頭蓋骨をびりびりと震わせた。耳の奥がぐわんぐわんする。「……酒本先生、近所迷惑ですよ」
「……ん?」ようやく正体を取り戻したのか、酒本はきょろきょろと辺りを見回したようで──はっとするように一度揺れると、歩の襟ぐりにぎゅっと腕を巻きつけ、「コンビニから運んでくれたんですね」
「まぁそうですね」
酒本が唾を飲む音を確かに聞いた。
「今夜は独りになりたくない」女の哀切を絞り出すように酒本は言った。「『恋人にしてほしい』なんて言わない。でも、今だけは側にいて。どうしようもなく寂しくてつらくて──心が壊れそうなの」
「……」歩が答えずにいると、
「ごめんなさい」彼女は
震える吐息が歩の耳朶をくすぐる。
「この世で最も信用できない言葉の一つは──」歩は言う。「『都合のいい女としてでもいいから側にいさせて』だと思うんですけど、酒本先生はどう思います?」
酒本は動揺するようにびくっと体を震わせた。あるいは、ぎくっと、と言ったほうが適切だろうか。「そ、そそそうですかね? 気軽に抱けるめんどくさくない女ですよーって顔して近いてちゃっかり本命の座を掠め取る小賢しい女なんて、そそ、そんなのそうそういないですよっ」
「ふうん」
「あの、わたし本当につらくて。絶対、迷惑は掛けないから──信じて」
「『あなたに迷惑は掛けないから』も信用しちゃいけない言葉ランキングの上位常連ですよね、たぶん」
「……」酒本は閉口してしまった。そしてとうとう、「……やだ」駄々をこねはじめた。「やです、駄目です、放しませんからね、わたしはくっつき虫なんです」脚まで絡めてきた。後ろから〈だいしゅきホールド〉されているような格好だ。
「──ぷっ」歩は失笑した。あははは──深夜になろうとしている黒く輝く星空に軽快な笑い声が飛んでいく。
むっとするように酒本は、「笑わないでくださいよ」
「すみ、ふふ、すみません」歩は噴き出しながらもそう言葉にした。「ぼく、酒本先生のこと誤解してました」
「……」
酒本の無言の催促に応え、「酒本先生は、もっと冷たい人だと思ってたんです。学校で話しかけても機械的な受け答えが返ってくるだけだし、何というか、人嫌いで人間味の薄い人なのかなって」
「……人嫌いではないです。ただ……」
と言い淀んだ言葉の先は、
「〈自分が一番大切〉?」推測した歩が口にした。「〈他人なんかのために余計なことはしたくない〉〈できるだけ楽して幸せになりたい〉〈自分さえ良ければそれでいい〉──こういう感じですか?」
「……はい」まるで叱られた幼子のように力なく酒本は首肯した。しかし、「わたしは弱い女なんです。だから仕方ないんです」と自己弁護を忘れないのは流石である。
弱ってる時に優しくしてくれた生徒を自宅に連れ込もうとしたらなぜか痛いところを衝かれる羽目になった真面目系クズの女教師はこうなるのか、と
「別に責めてるわけじゃないですよ?」歩は言う。「ぼくも似たようなものですから」
「そうなんですか? そうは見えませんけど」
「そうですよ」と言ってから歩は、「ところで」と流れを変える。「そろそろおぶりつづけるのも疲れてきたんで、ちょっと休んでいっていいですか?」
断られると思っていたのだろうか、酒本から弾んだ声が返ってくるまで数回のまばたきをこなせるだけの間があった。
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