「わたしは冷凍マグロ」


 情報料として歩が奢るわけだけれど、何を食べるのか、またホベツイチゴなのかな、と思って見ていると、静観は静かにそう言って食券器のボタンを細くて白い人差し指で示した。

 彼女のご所望の品は、正式名称を〈冷凍マグロのアイスオーシャン〉と言い、それを聞いただけではどういうものなのかわからないが、これはガチガチに凍らせたガチ冷凍マグロをミキサーで微塵切りにしたものをふんだんにトッピングした着色料マシマシアイスクリームである。

 そう、商品開発者の脳髄及び味蕾みらいはイカれているに違いないのだ。

 なお、使用されているマグロは高級品らしく、お手頃価格ではない。


 自分のソーダフロートの券と静観のそれをカウンターの調理師に渡すと、二人は隅の席に腰を下ろした。ほとんど時を交わさずして完成を知らせる声が飛んできた。歩が取りに行く。


 赤い肉片が散りばめられた青いアイスクリームにスプーンを突き立てる静観に、好奇心のままに虫の脚をもぐ幼児のような天真爛漫な残酷さを感じた。


「おいしい?」歩は尋ねた。


「うん」静観はスプーンを咥えながら小さくうなずいた。


 ストローに口を付けて自分のソーダフロートを少し吸うと歩は、「それで、その、事件の話だけど」と水を向けた。


 んくっ、と飲み下してから静観は言う。「まず一つ目は足跡について。双葉栞莉殺害の現場である野球部の部室には野球部員と栞莉のものらしき足痕跡そっこんせき以外はなかった、と警察関係者から聞いた」


「つまり犯人は、野球部の誰かか、彼らか栞莉と同じサイズのローファーか運動靴を履ける人物ってこと? でもそれだと範囲が広すぎる……」


 赤空学園は履き物を指定していて、具体的には一定のローファーに限るとしている。


「部員に関してはアリバイが成立しているから、彼らは除外できる」と静観は言うけれど、


「それでも容疑者が多すぎるよ……」


「これだけだと、そう。でも、もう一つの情報も併せて考えると違ってくる──二つ目の情報は死亡推定時刻について」


「死亡推定時刻?」刑事の話では、「午後一時から午後三時だったよね?」


「そう」静観はうなずき、「その根拠については知ってる?」


「え……」


 根拠? 死後硬直とか体温の低下とか、そういうので判断したんじゃないの?──そういった趣旨のことを答えると、静観は、


「半分は正解」と不正解を告げた。「そもそも死後変化による推定は諸条件によって左右される不確かなもの。警察はそれだけじゃなく被害者の目撃証言などほかの情報も考慮して結論を出す。今回の場合は、朱莉に変装していたものと見られる栞莉の最後の目撃証言がそれ」


「ごめん、どういうことか説明して」


 わかってる、というように目を逸らさずにうなずいて静観は、冬夜とうやに咲く六花りっかのように冷たく静かな言の葉を続ける。「栞莉らしき人物が最後に確認されたのは当日午後一時ごろ。場所は一年生のエリアである二階。目撃者は一年生が多数」


 一年生は二階、二年生は三階、三年生は四階となっている。


「なるほど、だから上限が午後一時なんだね」


「そう──けれど、さっき牛若が言っていた死後硬直や体温などの法医学的な観点のみに従えば、もう少し早くに死亡していた可能性も否定できないみたい」


「え、それって……」


 歩の言葉の先は静観が引き継いだ。「午後一時ごろに目撃された栞莉らしき人物は、犯人が、死亡推定時刻の上限を後ろにずらすために、朱莉に変装した栞莉に変装していたものだった可能性があるということ」


「……その犯人は栞莉か部員と同じサイズの靴を履ける人物?」


「うん」


「しかも、双葉姉妹の入れ替わりを見破って彼女たちを確実に見分けられる?」


「うん」


 ふぅー、と歩は息を吐いた。「静観は朱莉がやったって言いたいんだね」


「わたしがそう言いたいわけじゃない。状況から論理的に推測するとその結論に至るというだけ」


「同じことだよ」


「どうして?」静観は小首をかしげるでもなくわずかに目線を傾けた。「わたしはどちらでもいい。朱莉が犯人だろうとそうじゃなかろうと彼女や事件に対して抱く感情は変わらない」


 静観は人に興味がないのだろうか。それにしては人をよく見ている──観察している。なぜ、と考え、すぐに答えらしきものに思い至る。


 歩は悩ましい強張りを眉間に感じた。「静観ってさ、人間のことを動物だと思ってるでしょ」


 この時、歩は初めて静観の表情が動くのを目にした。少しだけではあるけれど彼女は、きょとんとしたように目を丸くして二回まばたいたのだ。そして、「それは当たり前」と答えた。「人間、ホモ・サピエンスは動物の一類型にすぎない──違う?」


 たぶん静観の価値観では人間は観察対象の実験動物のようなものなんだろう、と歩は直感していた。親愛や哀れみを向けたりする対等な存在ではなく、もっと純粋な興味の対象──まるで遥か高みから見下ろすかのように歩たち人間を観察し、記録している。


 ううん、とかぶりを振って歩は、「違うくない」と答えた。「変なこと言ってごめんね」


「別にいい」


 静観の、銀に輝くスプーンから赤い雫がしたたり落ちた。

 ふと脳裏をよぎった──サイコパスとは神のなり損ないのことなのかもしれない、と。







 朱莉が犯人だとは考えたくない。

 けれど、静観の言うことももっともではある。可能か不可能かで言えば、朱莉になら十分に可能。栞莉になったり朱莉になったりとメイクを早業でこなさなければならないのが難点だけれど、顔の造形自体は瓜二つなのだし、練習すればできるようになるだろう。

 とはいえ、朱莉が栞莉を殺す動機もわからないし、警察に逮捕されていないことから令状が取れるほどの証拠も見つかっていないのだろうとも思う。つまり、朱莉犯人説はいまだ根拠に乏しい空論の埓内。不安になる必要はそんなにはない。はず。

 しかし、朱莉以外の誰に可能だというのか。

 でも……。


 と、そんな無限逆接思考を頭の中でぐるぐるさせているうちに光は矢のごとく駆け巡り、今週も残すところ五十時間弱──現在日時は六月二十八日(金)の午後十時五十三分、歩は自室で夜のテレビ番組を観ていた。

 下世話な話でぎゃあぎゃあと盛り上がっている見覚えのある人間たちの中に、見知らぬ不細工な男がいることに気づいた。四十代ぐらいに見える。彼は新手の芸人だろうか。

 コンテンツの大量&高速消費の時代に彼のように小汚なくてどこか古くさい芸人は何日持つのかな、と他意なく純粋に疑問に思った時、


 ──ぐぅぅ。


 お腹が鳴った。

 今日の晩ごはんは、安かろう悪かろう、そして少なかろうでもあるところのスーパーの弁当だけだった。空腹を訴えるように胃が蠢動しているのは、そのせいだろう。

 歩は立ち上がった。冷蔵庫を開けるも、中にはろくな固形物がない。猫の額みたいな台所の天板ワークトップには八枚切りの食パンが置いてあるけれど、それを食べてしまうと明日の朝食がなくなってしまう。それはとても悲しい。


「コンビニ行ってくるか……」


 そう独りごちると歩は、二つ折り財布とスマホをジャージのポケットに突っ込んでアパートを出た。

 最寄りのコンビニまで徒歩一分半くらいだ。あっという間に看板が見えてきた。


「ぃらっしゃいせー」


 自動ドアをくぐると、バイトらしき小娘のやる気のない声に迎えられた。怠いなら別に言わなくてもいいのに、と歩はいつも思う。

 まずはスナック菓子の棚に足を運んだ。そこには、アルコール度数の高さ、安さ、味の悪さのすべてを兼ね備えていることで有名な缶チューハイでいっぱいの買い物かごに、味の濃そうな──つまりは酒のツマミに向いていそうなスナック菓子を放り込む若い女がいた。うっすらと下着の透ける白いプリントTシャツに七分丈のデニム、砂浜用ではない少しだけ底の厚いクリーム色のビーチサンダルといった、ちょっとそこまでコーデで、かなり酔っているのか耳まで赤くなっていて、香水らしき甘ったるいにおいにまじって、つんと鼻を突くアルコール臭が漂ってくる。


 何か見たことある人だなぁ。

 と思ったのも当然だった。普段とはだいぶ装いが違うけれど、彼女は歩の知る人物だった。 

 彼女──担任の酒本清香がこちら見た。朦朧と焦点の定まらない潤んだ瞳をしていて、眼前にいる青年を自身の受け持つ生徒だと認識しているのかいないのか、何も言わずにふいと視線を逸らし、商品の物色に戻ってしまった。スナック菓子を買い物かごへぽんぽんと入れると彼女は、おぼつかない足取りでレジへと向かった。


 ほんの少しの寂しさを覚えたけれど、たいしたことはない。歩も自分用の餌を物色する。


「ありあとーしたー」


 やはりまったくもってやる気の窺えない声に見送られて歩は、コンビニを出た。

 もわっとぬるい初夏の風を顔に浴びた。と、その中に苦酸っぱいような刺激臭が紛れ込んでいることに気づいた。

 うへぇ、くちゃい。

 歩は顔をしかめて首を回した。その原因はすぐに判明した。

 店内からは見えないであろう位置でコンビニの壁に手を突いた酒本が、盛大にゲロっていたのだ。おぅえっ、げぇげぇ。


 えぇ……。歩は当惑の極みである。何なのこの状況。

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