──べたべたり。

 湿気を多く含んだ初夏のぬるい夜風が肌を撫で、亜麻色の髪が視界の端で揺れ動いた。右手側には幅広の川──血飲川ちのみがわが、地獄へといざなうかのように夜闇やあんの彼方へと続いている。この不快なべたつきは、そのせいもあるのだろう。

 歩は川沿いの土手の上の鋪道を歩いていた。疎らな街路灯が頼りない光を落とすだけの暗く物寂しい道だった。


 栞莉の体は、歩の予想以上に甘美な包容力に満ちていて、しかしその精神は対照的にひどく不安げで、だからだろうか、そんな矛盾を抱える彼女からもたらされる快感に歩はある種の倒錯した安らぎを覚えた。

 思い描いていた初体験とはだいぶん違うものだったけれど、満足していた。

 事が済んでからも歩は、ベッドの中で栞莉のすべらかな肌に触れていた。彼女もそれを嫌がる素振りは見せなかった。時折くすぐったそうにしながらも素直に受け入れていた。

 炭酸の抜けたぬるいコーラに浸るような甘く惰性的な時間だった。


「そろそろ朱莉が帰ってくるから……」しばらくして栞莉が言った。


 部屋の中央にある洋風座卓に置かれたアナログ式時計に目をやると、あと少しで午後八時になろうとしているところだった。

 もう少しこうしていたいと思ったけれど、歩は首肯した。

 その時の歩の顔が栞莉の目にどのように映ったのか、彼女はすっかり打ち解けた苦笑を転がして、「意外と甘えん坊さんなんだね」


「そうかな」と曖昧に答えると、


「そうだよ」と栞莉はうなずいた。「今日はこれ以上は無理だけど、今度お泊まりしようね」


 今度、というのがいつなのか、現実味のある話なのか尋ねはせずに歩は栞莉の家を後にした。

 

 かつては五万人以上の住民がいた赤空市だが、田舎の町の例に洩れず人口流出が進み現在は二万人ほどしか暮らしていない──そのようなことを例の地元出身の女子アナが言っているのを聞いた記憶があった。

 数字を言われてもピンと来ないけれど、虫の鳴き声ばかりが耳に響く人の気配のしない道を歩いていると、なるほど、彼女の言には嘘も誇張もなかったのだな、と思える。


 と、その時、視界の先で一人分の人影がちらついた。川の反対側──住宅街のほうから土手の階段を上がってきたようだった。その影は歩に背を向けて歩き出した。周りに人がいないせいで妙な異物感があって悪目立ちしており、つい気になってしまう。

 その人影は淡い街路灯の下に差し掛かると、横を向いて川のほうを見下ろした。その面差しが、ぼうと夜に浮かび上がった。

 小杉?

 いじめられっ子の小杉啓太に見えた。歩の視力は両目とも一・五である。遠目でもそうそう見違えはしないだろう。

 こんな時間にこんな所でどうしたんだろう?

 事情を知らない人からすれば歩もその疑問の対象になりうるのはわかるけれど、まぁそれは措いといて、何やら暗く沈んだ顔つきだったし、胸裏で心配が鎌首をもたげた。


 いじめられっ子、人けのない夜の河川敷、思いつめた表情……何か今にも自殺しそう感があるな。

 まさかね、そんなことそうそうあるわけない、と思うも、歩の心は浮き足立つ。


 小杉は右に折れて河川敷へ続く階段を下りはじめた。その先には、錆びついた遊具とささくれ立った木製ベンチ、あとは公園灯がぽつぽつとあるだけの、田舎特有の無駄に広い河川敷公園がある。そこが目的地なのだろうか。

 跡を追って歩も、所々崩れていて危ないコンクリートの階段を下る。


 小杉は川のほうに体の正面を向けるようにしてベンチに座った。

 陰からこっそり見守る、などということはなく歩は普通に話しかけた──というより、歩み寄る気配に気づいた小杉が振り向いたのだ。彼は幾分か驚いた表情をしたけれど、声を上げることも逃げ出すこともなかった。


「何してるの」立ったまま歩は尋ねた。


「特に何も」小杉のやや高い声が答える。「川を見てただけ」と視線を暗い水流に戻す。「ここから見える景色が好きなんだ」


 景色といっても暗くてろくに見えない──見えたとしても何のおもしろみもない小汚なく濁った川でしかないけれど。


「あ、そう」歩は無断で小杉の隣に腰を下ろした。じめっとした木の感触が気持ち悪い。


 誰かの隣に佇む沈黙は嫌いではない。しかし、歩は口を切った。「昼は、ごめん」


「昼?」小杉は不思議そうに聞き返してきた。


「うん、小杉が困ってるのに何もしないで立ち去ったから」


「ああ」小杉は得心の声を出した。「そんなの謝んなくていいよ。それが普通だよ、きっと」それから彼は視線を少し下げ、「酒本先生だって見て見ぬふりだし」とつぶやくように言い足した。


「そっか」歩は小杉がまだ制服姿だということにふと気づいた。認識はしていても意識には上がってきていなかったのだ。「帰宅部だったよね? 今までふらふらしてたの?」責めているようにも聞こえる語調だったかもしれない。


 納得がいかなそうな小杉の視線が、歩の頭のてっぺんから無造作に伸ばされた足の先までを舐めた──歩も制服だった。スクールバッグまである。「それはお互い様じゃない?」


「まぁそうだね」と吐息を洩らすように応じ、「……あいつらに付き合わされてたの?」と一歩踏み込んだ。


「……うん」一呼吸分の間の後に小杉はうなずいた。「やっぱりわかるよね」と星の見える空を仰いだ。卑下たような、自嘲的な諦念まじりの困り顔になり、「そうだよ、お察しのとおり財布兼雑用係をやらされてた、カラオケとかコンビニとかでね」 


「うん」


 はぁ。小杉はくたびれた溜め息をついた。「きっと僕はカモにしやすい人間なんだろう──って思って諦めようとはしてる。けど……」


「『けど』、何?」と静かに先を促す。


「何ってことはないよ。ただ、ちょっと疲れたなって思ってるだけ」


 ……これはまずいのでは?

 歩は不安になる。放置したらある日突然、〈残念なお知らせ〉を伝える全校集会が開かれるのでは?──兎月の時みたいに。

 歩は眉間にしわが寄るのを感じた。あんなのは人生で一度で十分、もう御免だ。


 歩は尋ねる。「死にたいとか思ってる?」


 言い方が気に障ったのか、一瞬、剣呑な気配を感じた。が、すぐに引っ込んだ。「……死にたくはない」小杉は言う。「ただ、生きていたくもない」


 わかるような、わからないような。どちらの道も夥しい荊に囲まれていて立ち尽くしている、そんな感じだろうか。

 こういうとき、どう言えばいいのだろうか。何を言えば、小杉の気持ちを楽にしてやれるのだろうか。


 深く呼吸して歩は、軽い調子で言った。「ぼくも昔、いじめられてたんだ」


 小杉が歩を見た。闇の中でその一重まぶたを見張っていた。「……ほんとに?」


 歩は微笑した。「本当だよ。ぼくさ、山に囲まれた、ど田舎の村で生まれたんだよね。限界集落っていうのかな、おじいちゃんおばあちゃんばっかりで、過干渉で、古くさい謎の掟がまかり通るような村ね」

 

「因習村ってこと?」


「ううん、そこまでホラーちっくじゃないかな。普通に閉鎖的で陰湿な集落って感じ──いまいち想像できないよね?」


「ごめん、ちょっとピンと来てない」


「『そんなの謝んなくていいよ。それが普通だよ、きっと』」と笑ってから歩は続ける。「ま、とにかくぼくはそこで生まれたわけ。で、ある日、事件が起こった」


 小杉が唾を飲む気配がした。


「──あ、別に殺人事件とかじゃないよ?」と歩は素早く補足する。「ぼくんちはずっと母子家庭なんだけどさ、うちの母親がやらかしちゃったんだよねー。つまりね、既婚者の村長と不倫してたのが発覚してさ」


「あっ……」小杉は察したような声を零した。痛ましそうな視線が歩の肌をくすぐる。


「もう何となく予想はついてると思うけど、母さんが強引に迫ったってことにされてさ、ぼくら親子は村八分になった──無視はされるわ、家にごみを投げつけられたり見えないところで暴行を加えられたり、ほかにも性格の悪い嫌がらせをいっぱいされるわでマジで大変だった」


「……今はもう解決したの?」


 歩はかぶりを振った。「あの村から逃げ出したぼくに関して言えば解決したって言えるかもしれないけど、母さんはまだあそこで暮らしてる」


「どうして君のお母さんは──」そこで言葉を切った小杉はしかし、なぜ君の母はそんなところにとどまっているのか? と問いたげな顔をしていた。


 歩は小さく肩をすくめた。「母さんは村から出たがらないんだ。あの人の本心はぼくにもわからないけど、たぶん、まだ村長と続いてるからじゃないかな」そして、「十分痛い目見てるはずなのに懲りない女だよね」と笑った。


「それは……」小杉は返事に窮しているようだった。何とか絞り出すように、「それだけその人を愛してるってことじゃないの」


「どうだろうね」さらりと受け流して歩は、「とにかくぼくが何を言いたいかっていうと、いじめなんて環境が変わればなくなるってこと。大学には行くつもりなんでしょ? あいつらは馬鹿だから小杉の行くような大学には行けるわけないし、それまでの辛抱だよ。

 で、大人になれば立場が逆転するんだよ。上司と部下だったり、親会社の正社員と子会社の契約社員だったりね」


 小杉は、困ったようなやや歪な笑みをたたえた。「……ありがと、優しいんだね」


「そうでもないよ、ぼくは自分が一番かわいいから」


「でも、それはみんなそうじゃないかな」


「かもね」

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