ややあって歩は口を開いた。「……わかったよ、体を差し出してくれるなら誰にも言わないって約束する」


 栞莉が、脱力するように、安堵するようにわずかに肩を下げた。「よかった……」


 どうしてこんな提案を受け入れてしまったのだろう?

 ささやくように繰り返された哀れを誘う懇願の言葉にほだされたのだろうか。栞莉の必死な瞳の裏にある恋人への献身的な愛に心打たれたのだろうか。はたまた、そんな少女を思うままにすることに、それほどまでに深く愛している男を裏切らせることに仄暗くも甘い嗜虐の官能を感じたのだろうか。

 それとも、ただ単に動物的な肉欲に流されただけ?──と、そこまで考えて、ふいと思い当たった。

 もしかしたら兎月を失った寂しさを埋められるなら誰でもよかったのかもしれない。


 気がつけば、歩は栞莉の唇に触れていた。指の腹でそっとなぞる──リップの、かすかなべたつきを感じた。

 歩を見つめる瞳は逸れず、ぱちぱちとしばたたいた。

 正面からじっと見ると、やはり栞莉はすごくきれいだった。

 そんなことを思うと同時に、


「すごくきれいだよ」


 歩は声に出してささやいていた。


 はにかむように栞莉はほほえんだ。「……ありがと」


 もう駄目だった。歩の心は彼女の柔らかなそれを求めて鳴いていた。

 栞莉に拒絶する気色はない。

 やがて歩は吸い寄せられるように唇を重ねた。


「ん……」栞莉の甘やかな声が唇の端から零れ落ちた。


 キスが終わると栞莉は、歩の腰に手を回したまま上半身だけを少し離し、「ここで最後までしたい?」と尋ね、背後に広がる屋上に意識を向けるように視線を横に流した。「誰か来るかもしれないし」


 場所を変えたいようだった。

 それはいいのだけれど、一つ気になることがある。


「雑野さんには何て言ってきたの?」歩は尋ねた──というか、彼はこちらに気づいていたのだろうか?


「『出版社の人と打ち合わせの予定があったんだった!』って嘘ついてきちゃった」


 ということは、雑野には覚られていなかったようだ。そして、その嘘が通用するということは、


「本でも出すの?」


 出版社と打ち合わせをしても不思議ではない状況にあるのだろう。  


「うん」栞莉はうなずいた。「ウェブ小説のコンテストで入賞したから」


「へぇ、すごいじゃん」


 栞莉は照れたように笑い、あるいは照れ隠しをするように、「ショートショートが一本だけだけどね。ほかの人のとまとめて一冊にするアンソロジー企画のやつだし」


「それでもすごいよ」歩はごく自然な仕草で栞莉の頭を撫でた。「偉い偉い」


 豆鉄砲を食った鳩が、その豆の味がお気に召さなかったのか、ジト目になった。「……さっきから思ってたんだけどさ、牛若って結構遊んでる?」


「何でさ? 別に遊んでないよ」


「ふうん」


 どうやら栞莉は疑り深い性格をしているらしい。


 ──劣等感マシマシ束縛バチバチ爆乳ムニムニメンヘラちゃん。


 とかいう地雷臭かんばしい不穏すぎる暗黒ワード群が脳裏をかすめた気がしたが、たぶん気のせいだ。







 当初の目的は雑野の調査──情報収集だったわけだけれど、それは図らずも一定の成果を挙げることとなった。


「わたしはグロいのはあんまりって言ってるのに、修さん、スプラッターホラーばかり観ようとするんだよ、ひどくない?」


「うん、ちょっとは遠慮してほしいね」


「怖がるわたしを見ると興奮するんだって」


「うん、好きな子に意地悪する男子小学生みたいだね」

 

「ふふ、そうだね」栞莉は喜色漂う微笑を零した。「かわいい人だから」


「うん」


「でもね、かっこいいんだよ。昔バンドやってたみたいで、ギターもキーボードも弾けて歌もすごいの」


「うん、それはすごいね」


「そうなの、歌ってみた動画とか弾いてみた動画を上げて結構稼いでるみたいでね、いつもいろいろ買ってくれるんだよ」


「うん、たぶんアウトだよ、それ」


 歩と栞莉は赤空市の住宅街を並んで歩いていた。


「続きはわたしのうちでしよ」

 という、栞莉の、仄かに赤らんだ誘い文句に乗ったのだ。

 そうして別々に学園を出て、少し離れた所にあるうらぶれたバス停で落ち合い、付き合いはじめたばかりの初々しいカップルのように微妙な距離を空けて、互いの歩幅を探り合うようなぎこちないペースで歩きはじめた。

 すると栞莉は、聞かれてもいないのに雑野のことをしゃべりはじめた。たがが外れたように、と形容すると大げさに聞こえるけれど、せきを切ったように、ならぎりぎり適切であるような様子だった。

 たぶん、今まで話せる人がいなくてフラストレーションが溜まっていたんだろうな──歩はそう推量した。

 ちゃんと聞いてますよ、というポーズを示すのに必要十分な相づちを打ちながら歩は、時折、質問を挟んだりもした。


「用務員室にはよく行くの?」


「……やめたほうがいいのはわかってるんだけど、逢いたい気持ちが抑えられないことがあって」


「わかるよ──ところで、最近、用務員室で変わったものを見なかった?」


「変わったもの? ……そんなのなかったと思うけど」


 などと怪訝がられたり、


「雑野さんとは、いつから付き合ってるの?」


「初めてえっちしたのが一年生の秋ごろだから、付き合いはじめたのはそのくらい」


「体の関係が先だったってこと?」


「……変かな」


「変ではないよ──ところで、最近、雑野さんに不審な様子はなかった?」


「……ないと思うけど、さっきからどうしたの? 修さんのことばっかり──はっ! まさか牛若も修さん狙いなのっ?!」


「そんなわけないから安心して」


 などとあらぬ疑いを掛けられたりといった具合である。

 ただ、残念ながら歩たちが最も欲している情報は得られなかった。恋する乙女フィルターを通して見た雑野の人となり、趣味嗜好がわかったぐらいである。ないよりは全然マシだけれど──だから、一定の成果、なのだ。


 それほど時を交わさずして、栞莉が、「あれがわたしのうち」と前方の一戸建てを指差した。ダークグレーの外壁のモダンな趣の家だった。


 お邪魔します、と口の中で転がし、歩は敷居を跨いだ。

 小洒落た外観を裏切らず、室内のインテリアも落ち着いた色ですっきりとまとめられていて、住人の美意識の高さを窺わせた。

 両親は共働きで、しばらくは帰ってこないらしい。朱莉も部活が遅くまである。二人の淫戯が邪魔されることはない。


 廊下を進み、広いリビングダイニングに通された──と、大きなダイニングテーブルの上に、ティッシュの箱を少しだけ平べったくしたような黒っぽいデザインの箱を見つけた。それにはニトリル手袋と書いてある。

 ああ──歩は合点した。

 料理動画で使われていた黒手袋だろう。スマホを通して見ていたものが目の前にあることに奇妙な感慨が湧く。

 

 歩がそれを見ていることに気づいた栞莉が言う。「それ、朱莉が動画で使うやつだよ」


「こういうのってどこで売ってるの?」


「……朱莉は近くのドラッグストアから買ってくるけど」栞莉はもそもそっと答え、「朱莉の動画、観てるの?」と静かな口調で尋ねてきた。


「うん」箱を見ながら歩は答えた。「たまに観てる、ぼくも料理するから、休みの日とか」


「へぇ……」栞莉の声におもしろくなさそうな響きがまじる。「朱莉と仲いいんだ」


「いや別に。ただのクラスメイトだよ」


「わたしともそうだったよね」

 

 歩は栞莉に視線を移し、不機嫌そうにも見える無表情の彼女を認め、目をぱちくりさせた。「妬いてるの?」


 そういう関係だったっけ? と内心で首をひねる。全然違うくない?


「そういうわけじゃないけど……」


 すねる童女のように口を尖らせそうになるのをこらえているようにも取れる顔つきで言われても説得力はない。

 どんな精神構造してるの? どんなに良く言ってもセフレ関係(予定)だろうに。独占欲を向けられる理由がわからない。 


 ──と、ふと雑野との会話が思い出された。


「本当? 朱莉じゃなくてわたしなんかでいいの? わたしのほうがかわいい?」


「栞莉は世界一かわいいさ、お前の妹よりな」


「うれしい……」


 要するに妹の朱莉への劣等感をこじらせているんだな、と歩は理解した。卑屈な対抗心や過剰な嫉妬心を見せるのはそれが原因。たぶんそういうことなのだろう。

 

 くすっ──歩は苦笑を含んだ微笑を洩らした。


「何よ?」小馬鹿にされたと思ったのか、栞莉の声が今度は明確に鋭くなった。


「ぼくは好きだよ、栞莉のそういうとこ」


「やっぱり馬鹿にしてるよね」不満そうだった。


 しかし、歩が、おいでおいで、というように小さく手招きすると栞莉は素直に従う。


 ──むにっ。


 歩は両手で栞莉のほっぺたを挟んだ。怪訝そうにこちらを見る瞳の奥にほほえみかけ、


「大丈夫、栞莉はちゃんとかわいいよ」


 一瞬、大きな黒目が揺れた。ちゅるんとした潤みを帯びはじめ、手のひらに伝わる体温がじんわりとその熱を増していく。「何それ……」と消え入るようなささやき。


 歩は再び微笑を零した。「ベッド行こっか」


 こくりと栞莉はうなずいた。けれど、「……やっぱり遊んでるよね」と半目を向けてもくる。

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