浮かれさざめく放課後の新校舎の廊下を一人分の孤独の足音が進む。歩は用務員室へ向かっていた。


 雑野のことを調べるといってもどうすればいいのか。それとなく職員に聞き込みをしたり生徒に聞いたりといったことはすでにしていた。本物の警察のように、嫌われるのを承知で繰り返し尋ねたらいいのだろうか──そういったことを武蔵に聞くと、「ううん、そうだなぁ──とりま、侵入してみたらいいんでない?」と返ってきた。


「侵入?」歩は訝った。「どこへ?」


「そりゃあお前、用務員室だよ」武蔵は何てことないことであるかのように答える。「あそこに動かぬ証拠が隠されてるかもしれないから調べるわけ。ラスコーリニコフ君も強奪した物を部屋の壁紙の裏に隠してたわけ」


「……犯罪じゃないの? それ。しかも、ラスコーリニコフ君だって少ししたら隠し場所変えてたでしょ」


「正義のためなら多少のやんちゃは許されるわけ。ラスコーリニコフ君もそう言ってるわけ」


「ちょっと意味合いが違うと思うけど」


『罪と罰』の話は措くとして、武蔵の言は現代日本の法体系──違法収集証拠排除法則に反するもののように思えたけれど、歩は、まぁいいか、と深く考えなかった。責任能力のある社会人が一般社会ですることならともかく、学園生が正しい目的のために学園内でやる行為なら、たしかによっぽどでない限り大目に見てもらえそうだし。というか、実際の警察もそんな感じだろうし。


「わかった、やってみる」歩は首肯した。


 そして、現在に至る。

 新校舎の端にある用務員室に近づくにつれ、喧騒が遠のいていく。やがて見えてきたそのドアは、前回訪れた時とは違って閉ざされているようだった。

 施錠されてるかも、と一瞬思ったけれど、ドアとその枠にわずかな隙間があるのを認め、安堵した。と同時に、在室してるかも、と不安にもなった。

 足音を殺してそろりと近づき、バレないように注意しつつ中を覗き込む。


 ──嘘でしょ!?


 目に飛び込んできた予想外の光景に歩は愕然とした。

 用務員室の中では、雑野と朱莉の姉の栞莉しおりが抱き合って口づけを交わしていたのだ。深く長く口内をむさぼり合っている。くちゅくちゅという卑猥な水音が歩の鼓膜に絡みつく。

 雑野の右手が、ブラウスを押し上げる豊満な胸乳むなぢへと伸び、輪郭をなぞるように、焦らすようにその魅惑の膨らみを優しく撫でさすり──不意に包み込むように揉んだ。


「んっ……」栞莉から甘く濡れた声がしたたった。


 しかしまだ余裕があるのか、キスを続けながらも彼女は、雑野の、ズボンの上からでも一目でそうとわかるほど激しく怒張した一物を慣れた手つきで慈しむように愛撫しはじめた。まつわりつくようにくねくねと動くその白く細い手は、妖艶な蛇のようにも見える。


 これって本当に栞莉なのかな? 内面的には地味な喪女という彼女のイメージからあまりにもかけ離れている。


 二人の唇がわずかに離れ、至近距離で見つめ合う。


「修さん……好き、大好き……」栞莉が陶然とささやいた。「修さんはわたしのこと好き?」


「ああ」雑野は答えた。「愛してる」


「本当?」栞莉の顔に喜び、あるいは安堵がにじむ。が、「朱莉じゃなくてわたしなんかでいいの? わたしのほうがかわいい?」なお不安げでもある。


 もう何度も繰り返された質問なのか、雑野は柔和な苦笑を浮かべた。「栞莉は世界一かわいいさ、お前の妹よりな」

 

 今度こそ栞莉の顔が、ふにゃっと崩れた。「うれしい……ねぇえ、早くちょうだい、修さんの熱いのが欲しいの……」完全にできあがったメスの顔だった。


 二人はまた嫌らしく蠢きはじめた。とても気持ちよさそう──もとい、楽しそうである。

 ……うん、朱莉じゃないみたいだ。

 流石に、悪ふざけなんかのために自分の彼氏でもない男にあんなエロい顔を向けてしどけなくおねだりしたりはしないだろう。


 それはそれとして、歩は心中で頭を抱えてもいた。

 やっばぁぁぁ!! どうすんのぉ、これぇ?!

 公立学園の職員がその生徒に手を出す──社会人の中でもとりわけ法令遵守が求められる公務員の服務規定違反の瞬間である。バレたら馘首かくしゅ──懲戒免職されかねない。

 あわ、あわわわわっ──なんてアニメキャラのような滑稽な動揺の仕方はしなかったはずだけれど、何かしらの徴候がにじみ出ていたのか、栞莉の潤んだ瞳がこちらを向いた──ばっちり合ってしまった目が、鏡像のように同時に大きく見開かれた。


 あわ、あわわわわっ──歩の心が愉快な声を上げた。

 

 歩はさっと身を引いてひるがえり、密やかな駆け足でその場から逃げ出した。







 はぁ。

 歩の吐息は、じっとりとべたつく初夏の風にさらわれ空に消えていった。

 歩が緊急避難場所に選んだのは、新校舎の屋上だった。常に開放されていて誰でも自由に出入りできるけれど、人影はなく、貸し切り状態だった。

 歩はフェンス際に佇んで遠くの山やら夏空の彼方やらを眺めている。

 

 用務員室を調べるどころか、雑野の警戒心を煽っただけなのではないか。次に行った時にはしっかりと施錠されているかもしれない。やっちまったなぁ。

 スマホを見る。屋上に来てからまだ十分も経っていなかった。

 手癖に逆らわず、バァーっとSNSを確認していく──応対しなければならないものはなかった。

 さてこれからどうしたらいいのかな、と再び歩が考えはじめたその時、ぎぃー、と金属のこすれる音がした。屋上の扉が開けられる音だ。ぎくりとする。


 歩は振り返って扉のほうへ視線をやった。嫌な予感──案に相違せず、そこには思いつめたような表情の栞莉がいた。

 歩を捜し回って汗を掻いたのだろう、額に髪が張り付いていた。鬱陶しそうなそれを引き剥がすこともなく栞莉は、つかつかとくような足取りでこちらに来る──ゆっさゆっさと揺れる豊かな双丘に、一瞬、視線が惹きつけられた。

 一年生のころは栞莉と同じクラスだった。仲は良くも悪くもなかったと思う。したがって知人以上友人未満というような関係だったし、進級してからは話していないけれど、今もその無味乾燥な関係は変わっていないはずだ。

 ぽよよん、と近くで立ち止まった栞莉に、


「どうしたの?」と涼しい顔で尋ねて歩は、すっとぼける。「放課後はいつも文芸部の部室にこもってるのに」


 悩ましそうに柳眉りゅうびをひそめる少しの沈黙を経て栞莉は、「……見たよね」ぽつりと言葉を落とした。


「何のこと?」歩は小首をかしげる。「ぼくはずっとここにい──」


「嘘つかないで」栞莉は言葉を被せるように言った。


「だから何のことさ?」


 と抗ってはいるけれど歩は、これは誤魔化せなそうだな、と思っていた。朱莉のように派手なメイクをしているわけではないけれど、それでも間違いなく美しいその顔には、瞳には確信が浮かんでいる。そして、その根拠にも心当たりがあった。


「……顔は見られていないから誤魔化せると思ってるのかもしれないけど、それは無理だよ」栞莉は困り顔のまま静かに、諭すように言う。「目を見ただけで牛若だとわかった。君みたいにきれいな赤眼の人なんてほかにいないんだから」


 認めるよりほかはないようだった。


「……はぁ」歩は溜め息をついた。「たしかに見たことは見たけどさ」と口を割ると、栞莉はいっそう不安そうな顔になった。「でも、別に、学園に告げ口しようとか友達に話そうとか思ってないよ。そんなことしても何のメリットもないしね」と言ってもその曇は晴れない。


 こちらの言葉を信用していないのは明白だった。

 

「ねぇえ、どうしたら誰にも言わないでいてくれる?」


 栞莉の声色は、先ほど雑野に聞かせていたような媚を含んだものだった──歩の脳裏に生々しい情事の映像が再生される。

 舌を絡め合う接吻、学園の男子たちが憧れる柔肉を淫欲のままにまさぐる無骨な手、教室では聞いたことのない甘やかな声、信じられないほど激しくいきり立った男根とそれをいとおしむ淫靡な手──駄目だ、思い出していると妙な気分になってしまいそうだ。目の前に張本人がいるのもそれに拍車を掛ける。

 ちらりと一瞬だが、雑野の体温が染みついていそうな栞莉の乳房に視線がいってしまった──と、不安げな色に染まっていた栞莉の顔が、どこか危うさを孕んだ笑みに歪んだ。

 ぞわり。肌が粟立つのがわかった。

 

 栞莉が無言で迫る。歩は後ずさるも、


 ──カシャッ。


 フェンスにぶつかり、それ以上は下がれない。


 手を伸ばさなくても触れられる距離まで来て栞莉は、よくやく止まった。「……いいよ」彼女はそうつぶやくと、何がさ? と聞く暇も与えずに歩の手首を取った──汗ばんだ体温を感じるなり、歩のこめかみを汗が伝った。


 栞莉はそのまま歩の手を自身の胸へと導いた。くにゃり。温かな乳肉が押し潰される感触がし、目くるめくような気分に襲われる。


「どういうつもり?」歩は尋ねた。


 うふ──栞莉から返ってきたのは、妖艶な、あるいは打算的な女の笑みだった。「牛若がわたしのことをそういう目で見てたの知ってるんだから。一年生のころ、よくわたしのおっぱい見てたよね。さっきだって──」彼女の白い手が歩のそれに重なり、乳房へとより強く押しつける。


 歩の心臓が早鐘を打っていることに気がついた。一度意識してしまうと、うるさくてならない。


「いいよ」栞莉は歩から目を逸らさずに再び言った。「牛若が黙っててくれるなら、おっぱいもほかの所も全部、好きにしていいよ──だからお願い、修さんとのことは秘密にして」


 ねぇ、お願い──。

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