第二章
①
教室の窓に四角く切り取られた緑比率の高い風景を、歩は頬杖を突いて眺めていた。六月には入ったけれど、まだ梅雨入りはしていない。空には嫌みなくらいの青──快晴が広がっていた。
兎月の事件の真相は、いまだ解明できずにいた。
兎月の顔を脳裏に浮かべる。かわいらしい笑みも柔らかな唇の感触も、今はまだ鮮明に思い出すことができる。けれどそれも、生きている限り流れ込んでくる新しい記憶の奔流に呑み込まれ、やがて磨耗して擦り切れて無くなってしまうのだろう。そう思うと悲しみと寂しさが胸中に漂いはじめ、時折ぶつかってはカチカチと耳障りな音を立てる。
歩は溜め息をつき、黒板のほうへ視線をやった。
「──ええ、今日は席替えをします」
担任の
しかし、職場では見た目に気を使うつもりはあまりないのか、酒本のダークブラウンのセミロングは無造作に後ろで結われ──いわゆる、ひっつめ髪だ──意図的ではなさそうな後れ毛がぴょろぴょろと遊んでいる。
席替えと聞いて陽キャ連中が、イェーイともウェーイとも取れる曖昧な喝采を上げた。一方、隠寄りの歩は無言無表情で酒本を見ている。
「ええ、この箱から一人一枚引いてください」
教卓に置いていたティッシュの空箱を持って酒本は言った。席替えはくじでやるらしい。
歩の引いたくじには、荒んだ字で『D2』と書かれていた。窓際から二つ目で前から二番目の席だ。ツイてない。もうちょっと後ろの席がよかった。
「あゆちん、おいっすー」隣の窓際の席に座った
朱莉はいわゆる白ギャルという人種で、恐ろしく端整な顔立ちと艶のある長い黒髪、威圧的な濃いギャルメイク、そして女子にしては高い身長──目線の高さは歩とそう変わらない──が怖そうな印象を与えるが、クラスでの立ち振舞いを見るに別にそんなことはなさそうだと歩は思っていた。ちょっとチャラいけれど、普通の明るい子だ。友達も多い。きっとオタクにも優しいのだろう。
ただし、縦の繋がりは少ないらしかった。というのも、学園に入学するまでは東京で暮らしていたからだ。入学のタイミングに家族で越してきたらしかった。
朱莉には、実の親ですらじっくり見ないと見分けられないほどそっくりな双子の姉がいて、そちらは隣のクラスにいる。しかし性格は真逆で、姉のほうは大変におとなしく──地味な装いで、自分一人しかいない文芸部に所属しており、陰キャぼっちの極みのような青春を送っているようだった。
対して朱莉は野球部でマネージャーをしており、ステレオタイプにアオハルを謳歌しているようだった。が、最近野球部の一年生が喧嘩騒ぎを起こしてまとめて停学になったことで、そのきらきらグラフィティにも若干のケチがついてしまっていた。
──てか、あゆちんって何さ。
そんなふうに愛称で呼ばれるほど親しいわけではないと思うのだけれど、朱莉の中ではそうではないのだろうか。ギャルの価値観はよくわからない。
「うん、よろしく」と答える歩の視界の端には、存在を主張してやまないたわわに実った二つの果実が映っていた。
双葉姉妹は学年一の、いや下手をすると学園一の巨乳の持ち主なのだ。一説(?)にはIカップとも噂されているそれは、性的な思惑のない視線さえも集めてしまう。たぶん、見世物小屋の異形を見るときの気持ちが近いのだろう。物珍しさから、駄目だとわかっていてもつい見てしまう。
「ええと、朱莉さんでいいんだよね?」歩は尋ねた。
双葉姉妹を語るうえで欠かせないことがもう一つある。彼女たちの傍迷惑な遊戯についてだ。
カラコンの入った不自然な色合いの不気味な朱莉の瞳が、悪戯っ子のようににやっと細くなった。「さぁー? どっちだろうねぇー?」
双葉姉妹はよく入れ替わる。メイク、へアセット、声音、口調、性格──それらすべてを完璧に模倣し合い、周りを騙して遊んでいるのだ。
なぜって、楽しいからだそうだ。教師陣もお手上げ状態で、もはや注意することもない。そういうものとして諦めている。ご愁傷様である。
昼休み、歩と武蔵は体育館裏へと向かって歩いていた。
「めっちゃ天気よくていい感じに
武蔵がそう言い、断る客観的な理由のない歩がうなずいたからだ。
歩きながら武蔵は、「やっぱり用務員の雑野と柏女先輩が怪しいわけ」などと言う。
兎月の事件の真相解明を諦めたわけではなかった。
「もっ回洗い直してみるわけ」と武蔵。
「それは別にいいけど──」あまり意味はないような気がする、と思ってしまう。素人の真似事調査で、これ以上何か出てくるだろうか。
体育館の角を曲がると、先客──数人の男子生徒の姿が目に入ってきて、二人は足を止めた。
見るからに柄の悪いヤンキー三人が、おどおどした雰囲気の一人──クラスメイトの
小杉は低めの身長の小太りで、しかも色白なせいで、一部の口さがない連中から〈白ぶた〉などと
小杉の両親の職業のことが頭をよぎった。二人揃って整形外科の開業医をしていたはずだ。つまり、一般家庭よりは金を引っぱれる。
カツアゲだろうか。
その内容は定かではないけれど、いじめの現場であることは明らかだった。嫌な場面に遭遇してしまった、と内心で顔をしかめる。
小杉がふいと歩たちに気づき、視線を寄越した。歩の胸中に罪悪感にも似た気まずさがふわっと湧き上がった。
見つめ合う刹那の後、先に目を逸らしたのは小杉だった。彼は気恥ずかしそうに目を伏せた。その横顔が赤く染まっていく。
今度は同情心が湧いてくる──いじめられてるところなんてかっこ悪くて見られたくないよね。
歩も男だからその気持ちはよくわかる。だからこそ少なくない哀れみがあるが、しかし関わりたくないという気持ちも弱くなかった。というか、そちらのほうが強い。こちらに害が及んではたまらないから。結局のところ歩は、自分が一番かわいい、普通の利己的人間でしかなかった。
ヤンキーの一人が
見てんじゃねぇよ、失せろカス──声はなくとも、不機嫌そうに隆起した眉間と角を立ててにらみつけてくる双眸が、彼らの心裏を如実に伝えていた。てめぇらも痛めつけてやろうか? ああっ?! などと今にも言い出しそうだ。
「行こうぜ」武蔵が、促すように歩の肩を押して言った。「目つけられたら面倒なわけ」
「うん」歩は素直に従う。
歩は去り際に横目でちらと小杉を見た。彼はこちらを見てはいなかった。ただ地面を見つめているだけだった。
胸の奥の軟らかいところが、ちくりとした。
所変わって二年A組の教室で昼食。
「無駄足だったわけ」武蔵が溜め息まじりに言った。そして、歩が机に広げた弁当、もといタッパーを認めると、「──お前、それ、自分で作ったわけ?」
本日の献立は、男子学生が陥りがちな、肉! 揚げ物! からのも一つ肉! といった茶色一辺倒弁当ということもなく、赤やら緑やらがいい感じのバランスで盛りつけられている。なお、メインは冷凍のミニハンバーグである。
「まぁそうだけど」歩は答えた。
基本的にたまにしか料理はしないけれど、今朝は動画共有サイトに朱莉が上げている料理動画を見て、それを参考に作ったのだ。朱莉はメイク動画や野球ネタの動画も投稿していて、幅広い層から人気を博しているようだった。
朱莉さん、ハイスペすぎない? ハイスペ爆乳美少女ギャルとか、属性が渋滞してるよ──といった具合に歩は半ばあきれている。
「へぇ~」と感心した声を出した武蔵の昼飯は、購買で買った惣菜パン一つと菓子パン一つである。「すげぇじゃん」
そうして始まった昼食が終わると、二人はトイレに立った。連れションは男のロマン、と誰かが言っていたなぁ、とぼんやりと思いながら──武蔵だったかな? いや違うか──しかしそれが誰の言葉だったのかはわからない。そしてそのロマンとやらも、言うほどか? という程度にしか感じない。
赤空学園のトイレは、公立のくせに新しくてきれいだ。洗面所も自動で水が出る。
鏡の中の、見馴れた武蔵の顔が言う。「歩は放課後、お手すきなんだろ? オイラは部活があるから今日の調査は任せたわけ」
言い出しっぺの武蔵が自分の都合で人任せにすることに若干の不満を覚えるけれど、「りょーかい」と歩はうなずいた。
真相を解き明かすことが、兎月への
けれどもそんなことよりも、もう一度君に逢いたい。ただそう想う。
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