第7夜 有機ELの牙

「今帰りぃ? お兄ちゃん」


 緑のインナーカラーの入ったミディアムウルフ。甘えるような垂れた瞳と、猫のような口を結んだ少女。

 白い肌はもちもちと柔らかくも弾力があるのがこの至近距離で分かる。何も纏っていないだろうに、雪のように白く輝いていた。口の端が微かに上がった唇は若々しく、瑞々しい。

 小柄な体躯を包むワイシャツは第二ボタンまで外されており、身長差からだと内側が見えてしまいそうだ。が、そうはならない。無防備なワイシャツの上から羽織る灰色のパーカーがあるからだ。

 スカートは皇星学園規定の模様。それは、彼女が他ならぬ皇星学園の生徒であることを示している。


「いやぁ、お兄ちゃん先輩も隅に置けませんなぁ」

「そんなんじゃ……」


 反射的に否定しようとして、口を噤む。そんなものではない、とは安易に言い切れかったからだ。

 だが彼女は自分でその話を切り出すも、図星を差されたかのような保科の様子に不満げだ。頬をぷくっと風船のように膨らませ、人差し指で保科の指を何度も突く。

 間延びしたような声は、甘える時の猫のようだ。


「むぅー、ほんとにそうなの? この浮気者めー」

「俺は今でも彼女無しのつもりなんだけどなぁ」


 作らなかったのではなく、出来なかっただけなのだが。


「え」


 驚きが素直に彼女の表情に浮かぶ。

 まるで、今までの常識を否定されたような。


「お兄ちゃん、この後の予定は?」

「え、ゲームだけど」

「そか」

「……」

「……」


 階段を降りていた物乃と、階段を昇っていた保科。

 だが彼女はくるりと身体を反転させ、保科の腕に絡みついた。ごろごろと喉を鳴らす幻聴が聞こえそうな勢いで、花のような香りのする髪を保科の身体にこすりつけて。


「なんの、つもりだ?」

「何ってぇ、一緒に帰るんでしょぉ?」


 物乃憂は皇星学園一年。まさに数日後、入学を控えた保科の後輩だ。

 同じマンション、同じ階層、部屋は真隣。という条件が揃い、彼女がここに引っ越した保科が中学一年生の頃、つまり彼女が小学六年生の頃から接点がある。

 お兄ちゃんとは呼ぶが、実際に兄妹な訳ではない。ただ近所に住んでいた幼馴染だ。


「男の部屋にそんな軽々行くの良くないと思う」

「えへっ、お兄ちゃんならぁ、いいかなって」


 経験のない男を殺すようなキラーワードに、保科は思わず言葉を飲んだ。

 彼女とは一切恋愛的な関わりは無い。だがこうして惑わすような言葉を口にするのは彼女の性格故。つまりは、この状態が平常運転だ。

 違和感が走る。

 だが、今回は違う気がする。嫌な予感が全身をぞわりと撫でた。

 彼女が馴れ馴れしいのは平常運転。だが、彼女はここまで積極的な性格ではない。まるで全幅の信頼を寄せる夫婦のような甘え方。そして、今日の出来事。


「…………すまん。今日は無理。疲れた」


 今日は肉体的ではなく精神的に疲労が頂点に達している。

 喜ばしいことではある。だがそもそも一度でいいものを、一日にして三回遭遇したのだから疲れる。


「あと、言ってなかったんだが」


 少し不安はあるが、彼女も最近仲良くしている友人の一人だ。話さねばならないだろう。

 記憶喪失のことを話すと、彼女は先程までの可愛らしい声とは打って変わって、濁音が付いたかのような声で驚きを漏らす。


「だからこんなにそっけなかったんだぁ」


 階段を登りながらこぼすように呟く。

 同じマンションに住む彼女は、何かと理由を付けて保科の部屋に訪れ。友人というよりは悪友の類だ。

 部屋に入り浸っては家の菓子やジュースを貪り食い、対戦ゲームに勝手に巻き込んでは圧倒的な力量で捻じ伏せる。

 彼女はプロチームに所属するれっきとしたプロゲーマー。彼女に勝てる訳もないのだが。


「……だいじょーぶ。もう一回やり直せばいい訳だしぃ」


 少し引っ掛かる言い方に違和感を覚えるも、保科は自室の前に立つ。もたれ掛かるようにして立つ物乃も一緒に。

 だが、まだ扉を開くことはない。


「なぁ」

「なぁに?」

「今日は駄目って言わなかったっけ」


 物乃は目をキラキラと輝かせて保科が扉を開くことを待っていたが、やがて彼女がいる状態で扉を開けることはないと察したのか、少し不服そうに一歩引いた。

 大仰に彼女はただでさえ短いスカートでカーテシーを――貴族等が用いる女性の礼法――こなすと、再び頬を膨らませる。


「どうぞぉお兄ちゃん先輩。かわいい後輩彼女を置いていくといい」

「はいはい。また今度な」


 まだ少しだけ彼女を警戒しつつ、鍵を取り出し扉を開く。

 後ろ手に扉を閉じても、脚が差し込まれることはない。そこに気配は確かにあるのに。

 ふと振り返る。


「釣れないなぁ――」


 続く言葉を、保科は聞かなかったことにした。

 鍵を玄関入ってすぐの棚に置き、脱ぎ捨てるように靴を放る。そして、荷物を置くこともせずソファーの上に飛び込んだ。

 精神的な疲労は頂点だ。安心できる場所に着いたからか、一気に漠然とした不安と眠気がのしかかってくる。


「はぁ……」


 ため息も重い。

 それは、聞かなかったことにした物乃の最後の言葉を、気が緩んだせいで思わず思い返してしまったからだ、


「――うちら、恋人なのに」


 空琉那子、御酉夢久、河愛依世に続き、まさか物乃憂まで。

 変な夢でも見ているのか。だとすると、深層心理で彼女たちとこういった関係になることを望んでいたのだろうか。

 夢であるならばそれでいい。いつか必ず終わるのだから。だが、実際は夢でも何でも無い。紛うことなき現実。

 ゆっくりと歩み寄ってきた眠気が突然駆け寄って来る。

 この場所がリビングであることなど、とうに保科の頭からは抜けていた。

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ロジックリドル・ラバーウルフ 朽木真文 @ramuramu

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