第6夜 三人目の狼
「じゃあねー」とおっとりとした雰囲気を撒き散らしつつ、再び部室へと戻ってく御酉。それを目で追いつつ、保科は無意識的に左胸を抑え込んでいた。
跳ねる心臓が五月蠅い。血流が熱く燃え、身体の内側に熱が籠もる。
彼女、彼女、彼女。
御酉の言葉が何度も頭の中を巡り、血管を通り全身を駆け回っていた。
女性に慣れていない保科にとってその言葉は、最も価値のある言葉である。それを、一日に二度も告げられるとは。
しかも相手はトップクラスのファッションモデルと、大手企業のお嬢様。それも、驚くべき容姿とスタイルの持ち主。女性的魅力に溢れ、持て余しているような美少女たち。
「訳、分かんねぇ……」
心情そのものの吐露を、聞いていた者は誰もいない。
恋人が出来た時最も早く湧き上がる感情と言えば、歓喜の類だろう。が、今彼の身は困惑が支配している。
最も、空腹も。
「なんか美味しいもん食べて帰ろ」
午前中だけの授業だ。当然、昼食を持って来てはいない。
財布に残っていた金額を思い出し、美味しいものと言ってもファストフード程度しか買えないだろうと考えつつ、簡単に荷物をまとめて逃げるように教室を出る。
勿論、また戻ってきた御酉と会わないように。
「何食お」
誰もいない廊下を闊歩して呟く。
既に全てのクラスが下校を終えているらしく、学校は昼間とは思えぬ程の静寂だ。無論明日になれば、この時間も騒がしくなってはいるだろうが。
「ハンバーガー。いや、うどんもいいな。肉もあり……いやサンドイッチもあり」
敢えて今日あった出来事を考えぬように、考えていることを口に出す。
とは言え、悩んでいることは本当だ。
皇星学園の学区内にはここぞとばかりに、若者に人気を博している飲食店が連なっている。昼食に悩むのはこの学園生の常なる悩みなのだ。
「ん?」
下駄箱に収めていた靴に履き替え、校門に向かう並木道で立ち止まる。
校門にもたれかかる女生徒の影が見えたからだ。
まるで誰かを待っているかのように。いや実際そうなのだろう。腰から上をピッタリと門に付け、片手でスマホに目線を落としている。
一瞬立ち止まるも、特に関係がある訳ではない。
構わず校門まで進んでいくが、その道程で保科はもう一度立ち止まることになる。
「……正直今会いたくはなかったな」
その女生徒が、見覚えのある人物だったからである。
女子の方も近付いてきた保科に気付いたようで、ぱあっと顔を明るくして駆け寄ってくる。
焦げ茶色のハーフツイン。くっきりとした目鼻立ちと、太陽のような燦然とした笑顔。他でもない、河愛である。
女性のことで頭が膨張し破裂しそうな今、正直女性とは一切関わりたくない。というのが今の保科の心境だ。だが、この学校で最も見知った仲である河愛で良かった、とも思っている。
「……なんで居んだよお前」
「なんでって、そりゃあ! カズを待ってたんだよ!」
「待たせたとは言わんぞ?」
何故なら、待てと言った記憶は無いからだ。
「いいんだよ、私が勝手に待ってたんだから」
駆け寄ってきた河愛は、保科の腕を取りくるりと後ろの回り込むと、くるりと彼の周りを半回転し隣に立つ。
彼女相手には恋愛感情を意識しなくてもいい、というのは保科にとっても楽だ。
なにせ、一度振られた相手である。いくらこちらにはその気があれど、相手に気がないのなら変に期待せずに済むというもの。
「で? カズ何食べんの?」
「……一緒に来る気?」
「あわよくばご相伴に預かろうかと」
「黙れ金ねぇの。あとお前来るとメニュー決まって嫌なんだよ」
とは言え、彼女が一緒にいるということはメニューは決まったも同然である。
この皇星学園は保科と河愛の地元だ。当然共通の見知った場所があるし、行き慣れた場所がある。当然、思い出が籠もった場所も。
「やっぱカズは分かってるねー!」
「俺は嫌なんだけどなここ。嫌なこと思い出す」
「味は関係ないでしょ!?」
「誰のせいだと……」
中華虎虎亭。各国有数の飲食チェーン店が犇めき、鎬を削るこの皇星学区内において、取り分け人気がある訳でも無い中華料理屋。
いわゆる、地元の名店と言うべき店だ。
嫌な思い出とは、まさしく彼女に関することである。
当時、放課後河愛と二人で遊び歩いては虎虎亭で夕食を終えるのがルーティーンになっていた中学二年生の保科。いつものようにここで食事を終え、帰路の最中でようやく口に出した告白を断られた。
つまり保科は虎虎亭で食事を摂ると、振られたあの夜を思い出す。
「いやぁそのことなんだけど……やっぱいいや」
何か言いたげに口をもごもごと言い淀んだ後、河愛は口を噤む。
今日の彼女は、やはりらしくない。普段なら言いたいことはズケズケと、はっきりと言う彼女らしくない。
違和感は抱くだけにし、ガラガラの店内の決まった席に付いた。
「水取ってくる」
「注文しとく。どうせ麻婆だろ?」
阿吽の呼吸の連携は、何度も来慣れているからだ。
すぐに料理が席に到着する。保科らは、無言で食事を摂り始める。大皿の麻婆豆腐をレンゲで掬い取り、保科は眼前の少女を盗むように見ていた。
訊くべきか。訊かぬべきか。
今日の彼女は明らかに様子がおかしい。何かがあったことは明白だろう。
普段の保科なら無論聞いている。振った振られた以前に、大切な幼馴染。当然とも言える。
が、今日は今日で保科のキャパシティが上限を突破している。
学校随一の美女二人が、保科と付き合っていたというのだ。今現在彼の頭は、その事で一杯になっている。
考えている内に大皿の底が見えた。
「なぁ――」
「ねぇカズ、その事なんだけど」
迷いを振り切りようやく呼びかけた保科より少し早く、河愛が口を開く。
自分から話す気になってくれたらしい。安堵と共に、漠然とした不安が浮かび上がる。
否、あるはずがない、保科はそれを無理やり押し込んだ。
「記憶、無いんだっけ?」
「……あぁ」
「……なんで忘れてんのよ。私達もう、恋人なの」
思わず頭を覆う。
学校随一の空琉や御酉らと比べてしまうと、確かに河愛に華はない。
だが、それはあくまであの二人と比べるとの話である。
顔のパーツの主張がはっきりとした端正な目鼻立ち。大きな目はそれだけで可愛らしいし、白く透き通った肌はよく手入れが行き届いている。
小さな口は親指だけで覆い隠せそうで、と思えば手のひらよりも大きくころりと笑う。髪には艶があり石鹸の香りが漂っているし、膨らみと窪みがあるシルエットは女性的で可憐だ。
高校生とは思えぬほど、十分過ぎるほど魅力的な人物だ。
「あー……参考までになんでそうなったか聞いてもいい?」
「…………私から告った」
「マジか」
得も言われぬ空気が漂う中、中国人の店員が食器を片付けていく。
「悪い依世! と、とりあえず! 今日は帰るわ!」
慌ただしく荷物をまとめ、河愛を置き虎虎亭を後にする。幸い家は逆側だ。帰りに遭遇する事はない。
スマホに目を落としながらマンションの階段を昇っていく。
普段は一切しない、危ないからだ。だが先程までそうだったように、こうして他のことを考えていないとすぐに今日のことを考えてしまう。
だが、それがいけなかった。
軽い衝撃が身体を襲う。誰かとぶつかった、そう思い反射で謝罪を零しそうになった時、再び思考が停止する。
「……憂」
「いっつ……って、お兄ちゃんじゃぁん」
運命の女神は、逃さないと囁いた。
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