第5夜 狼
逃げるように帰ってきた教室で、大きなため息を一つ。
適当に誤魔化して、一応あの場は凌げたのはまだいい。だが問題なのは、あの有り得ないことを口走ったのが、他でもない空琉那子だと言うことだ。
冗談を言うような性格ではない以上、彼女は本当のことを言っているつもりなのだろう。そして察するに、文化祭で何かがあったのだ。
一体何をすれば空琉と交際など出来るのかは皆目検討も付かないが、そうなのだろう。
だが、このまま付き合っているということにするのはどうも自分が許せない。正確には失った記憶の期間も自分ではあるのだが、どうも他人の成果を横取りしているような気分になってしまう。
〈ねぇ、返信して〉
〈急用があるんで! ほんとごめんなさい! その話はまた今度!〉
気付けば数分の間に数十件も溜まっていたメッセージを全て既読にして、適当にごまかす。そして、再び大きなため息を零した。
今日の授業は新学期初日ということもあり、レクリエーションのようなグループワークを一度して午前中に終わった。
その為教室には誰もおらず、この空間は保科が支配していると言っても過言ではない。ただ幾つかの机の上は片付いておらず、部活だろうと推測できた。目線の先にある、斜め前の席も。
御酉夢久。彼女も現時点では謎に包まれた存在だ。
失われた記憶のヴェールの中に、答えがあるのは分かっている。だが失くした記憶が戻る兆しはなく、今ある情報だけで状況を整理する他無い。
御酉のこちらへの接し方は、明らかに親密な相手に対するものだった。恐らくはある程度仲が良かったのだろう。曰く同じ文化祭の実行委員だったそうだし、接点はあるのだから有り得ない話ではない。
少なくとも、連絡先を交換し合いあだ名で呼び合う程の。
河愛の件もそうだ。普段は全く見せない声、表情、態度。明らかに空白の三ヶ月に、彼女をあれ程の顔にする何かしらの出来事があったのだ。
「あれ?」
机に寄りかかるように腰掛け、何も考えずにスマホを触っていたことで、少し時間が経過してしまったらしい。
休憩に部活を抜け出したと思しき女生徒の声が、不思議そうにこぼれた。
「御酉……さん」
「かずくん!」
噂すれば影、とはこのことか。
普段はふわりと、鳥の羽の如く優しく放射状に広がっているロングヘアを、後頭部でひとまとめにしたポニーテール。少しくすんだゴールドの馬尾は、やはり緩やかな螺旋を描いて落ちていた。
霊峰の如き豊満なバストを厳重に秘匿するのは、ワイシャツと少し袖の余ったベージュのカーディガン。唯一露わになっているのは、太くはありつつも引き締まった太ももだ。だがそれも膝の少し上までを覆う靴下によって、殆どが隠されていた。
胸元で掲げるように持つのは、ゴツゴツとした無骨な一眼レフカメラ。見るからに高価そうな品だが、彼女、御酉夢久にとっては問題になる値段ではないだろう。
皇星学園新二年生写真部の彼女は、全国的シェア率トップクラスを誇る食品メーカー。オトリグループの御息女なのだから。
「どうしたの? ……あっ、さっき言ってた、話のこと? わざわざわたしの為に残っててくれたの!?」
彼女の言葉を受け、そう言えばと放課後の予定を訊いたことを思い出す。同時に、部活でカメラの調整をしている合間なら。という返答を聞いたことも。
不定形の心情を、無理やり塗り硬め覚悟とする。随分と親しい間柄になったようだが、だからこそ言わねばならないだろう。
「えーっと、どこから話したら……」
言い淀んでいると、自分の席にもたれ掛かっている保科の眼前の席に、椅子をこちらに向けて彼女は腰を落とした。
こちらの発言を待っているのか、彼女は組んだ脚の上で手を組み、上目遣いで保科の顔を見つめ黙っている。
腹を括る。
「あー……あの、俺の事故の件なんですけど」
御酉の表情に明らかに陰りが差す。
「この通り五体満足ではあるんですけど、一個だけ後遺症があって。事故以前三ヶ月くらいの記憶が無くて……」
「かずくん!!」
まるで戦争から帰還した家族を抱き寄せるように、御酉が保科に飛びついて抱き締める。
胸の辺りを包み込む柔らかくも弾力がある感触と、鼻腔を支配する暖かくも甘い香りを理性を以て遮断する。
「そっか……、全部わすれちゃったんだ……」
軟らかな手で保科の頭を抱き、胸に寄せる。
ゆっくりと黒髪を撫でる白い手には、傍から見れば小動物に向けるような庇護欲と、永く連れ添った伴侶に向ける愛情が込められているような。そんな手だった。
ただ垂らすだけの保科の手は、どこに置くかしばらく悩むように空中を彷徨い、最終的に自分の腰に戻って来る。
「だからわたしのことも、名字で呼んでたんだね」
「ま、まぁ……」
その通り。
この関係性は、空白の三ヶ月の間に築き上げたものであり、その記憶は今の保科には残っていない。
無論、学園の中でも抜きん出た美貌を誇る彼女とは是非仲良くなりたい。だが、三ヶ月のことを過去にあったこととして、その時と同じように彼女と接することはできない。
友人だと思ってた相手が、相手は友人だと思っていなかったなんてことはとても悲しいことだ。だからこそ早めに告げねばならないだろう。その分だけ、改めて仲を深める事が出来るのだから。
「じゃあ、一緒にがんばろ?」
少し悩んだような素振りを見せた後、彼女は驚くべき言葉を紡ぐ。
肺を膨らませて息をすることを、脚を動かして歩くことを、手指を動かして物を掴むことを。
人間の基本的な機能を、何故息が必要なのか、何故人間は歩けるのか、何故指はこんなにも自由に動くのかといちいち疑う者はいない。
そして、彼女はその言葉さえさも当たり前の事象のように。
「だってわたしは、彼女だもん」
不敵に微笑んだ彼女の言葉に耳を疑う。自分の記憶を疑う。
数秒の反芻の後、保科は大きく口を広げていた。
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