第4夜 カミングアウト
〈あの、ちょっとお話が〉
〈なに?〉
授業中にも関わらず、バイブレーションが鳴り響く。
こちらの科目は英語。ただ春休み中に出された課題の、小テスト中である。教壇にあるべき人影は無く、事故で入院していた保科はこのテストを免除されている。
だからこそ、こうして堂々とスマートフォンを弄れるのだが。
〈えっと、非常に申し上げにくいのですが、実はさっきの言葉は完全な嘘ではなくて〉
間髪入れず着信が掛かって来た。
周囲の眼を気にしつつ慌てて拒否し、全くどうなっているのだと保科は呆れる。
芸能科は、生徒全員が何かしらの形で芸能活動をしている者たち。その性質上、盗撮等を防ぐために普通科とは異なり授業中のスマートフォンは持ち込み禁止だった筈である。
こうなると彼女は何度も着信を寄越す。次の着信が来る前に、素早くメッセージを打ち込む。
〈実は後遺症がありまして〉
先程と同じく、一瞬で既読が付く。だが、先程とは異なり瞬時に返信が来ることは無かった。
まるで、画面の前で思案に耽っているようだ。事実こういった時、彼女は迷いがその指に現れるように、自身の人差し指で輪郭を撫でる癖があることを思い出した。
〈事故前から三か月の記憶がないんです〉
やはり、返信は来なかった。
〈遅い〉
「……はい」
新しい教室から階段を上り、三階の端の方。
図書館程、とまでは行かないが高校の図書室としては破格の蔵書数を誇る図書室の隣が文芸部室。保科の放課後の溜まり場にして、空琉との密会の場所。
本棚に囲まれた少し狭い空間で、眼前の空琉が机の上で腕を組み、少しの怒りを孕んだ表情で携帯に指を叩き付け、時に滑らせる。
〈何してたの?〉
「いやぁ、ちょっと友達に捕まっちゃって」
言い訳は本当だ。つい先刻の御酉とのやりとりを盗み見られていた私院により、かつて無い程に詰められたのである。
眼前の美少女は、机を挟んで目の前にいるのにも関わらずポチポチとフリック入力を続けていた。
改めて芸能科三年生、空琉那子。この皇星学園の中でもトップクラスの入部希望者を誇る文芸部が部長。では何故文芸部の部員は増えないのかと言うと、彼女が部長の権限で全ての希望者を突っ撥ねているからである。
高嶺の花、クールビューティーの等の二つ名を恣にしている彼女だが、実際の彼女は噂とは少し違う。
その答えは、極度の人見知り。
同じ空間に居ても、目線一つ合わせようとはしない。会話すらしようとしないのだ。
学校でこの事実を知っているのは自分だけだろう。と、保科は優越感に浸かるも、全身ではない。それを知っていたとしても、彼女と特別な関係が築ける訳ではないのだから。
〈大丈夫なの? 記憶喪失〉
「まぁ、特には。事実先輩のことは覚えてるんで……」
フリック入力の合間に、筆ですっと撫でたような切れ長の眼、には似つかわしくないくりくりとした瞳が微かに潤み、心配そうに保科の様子を窺っている。
少し話す程度だが、彼女は嘘が得意な人物ではない。心配は本当だろう。
〈文化祭、おぼえてる?〉
この皇星学園での文化祭は十月。当然、保科の記憶が欠落した範囲中だ。
「いや……」
〈そっか……〉
暫くの沈黙の後、文尾に涙を流す絵文字が付いた。
彼女は何処から見てもクールなイメージが先行するが、こうして話しているとこのように可愛らしい一面もある。
「それで……話とは」
フリック入力の効果音が止む。そして、暫くの沈黙。
数分にも数十分にも思える、厚いカーテンのような沈黙。それを声ではなく、行動で先に破ったのは空琉だった。
通学鞄をごそごそとまさぐり、取り出したるは旅行雑誌。
京都、札幌、沖縄は勿論のこと、避暑地、温泉地、遊園地に、寺社仏閣の巡礼のハンドブックまで。
それらを大きな長机の上にトランプのカードのように並べ、彼女はようやくを重々しい口を開いた。
「どこ?」
「え?」
「どこ行く?」
「……ん?」
思わず彼女の瞳を覗き込む。
一切の曇りの無い、澄んだ黒い瞳は純粋な疑問だけを浮かべていた。
言葉の意味は分かる。だが、意図が分からない。その言葉はまるで、自分と共に旅行に行こうと言っているようなものではないか。かの空琉那子が。
「どこ行くって、先輩と、僕がですか?」
「うん。だって……私達、付き合ってるんでしょ?」
部室の空気が凍り付いた。正確には、保科の思考が凍り付いたかの如くフリーズした。
長く、重苦しい静寂を切り裂く勇気は無く、保科は十数秒以上も間を空けてようやく思考の水車が動きを始める。
付き合っている。その言葉が示す意味は一つ。
交際。保科一哉と空琉那子の、恋人関係。
馬鹿げている。有り得ない。
方や彫刻と見紛う程の暴力的な美の化身。日本中に名を轟かせ、世界にすら手を掛けつつあるファッションモデル、タレントの空琉那子。
方や金ないモテない彼女いないのナイナイ尽くしの一般人。人並みの生涯を生き、これからも人並みに死ぬのだろうと思しき保科一哉。
同じ文芸部、というだけでも奇跡だった。
皇星学園において、普通科生徒の一から二年生の間は何かしらの部活への入部を強制されている。
古い歴史を持ちつつ、新しい風を常に取り入れるこの学園では様々な部活が存在する。
サッカー、野球、バスケット、バレー、バドミントン、卓球、テニス、水泳、弓道、ダンス。よくある運動部は勿論のこと、華道、茶道、演劇、吹奏楽、文芸、軽音、新聞、囲碁将棋、写真、家庭科、園芸、料理研究、競技かるた、詩歌、コンピューターといった文化部。
変わり種として、釣り、登山、レオブロック、おりがみ、考古学、視覚言語、影絵、奇術、超自然科学、躰道、調香部なんてものまで存在する。
そんな中で、文芸部は最も影の薄い存在だった。
まず、目立った結果が無い。
皇星学園は日本でも最新鋭の設備を誇る。そして知名度故に、日本中からその道を志す学生が集まるのだ。
運動部は漏れなく全てが強豪校。文化部でも、例えば影絵部は年に三度程公演を行いその知名度は高く、テレビの取材も受けた事がある。奇術部はジュニア部門マジシャンコンテストでの優勝者を幾人も輩出しているし、吹奏楽部軽音楽部共に金曜日夜の音楽番組に何度も出演した。結果を出していない部活を探す方が難しい程だ。
次に、華が無い。
どの部活も、文化祭にて焦点が当たる。登山部は登頂した光景の見事な写真を飾る。視覚言語部は文化祭の案内を任されるし、釣り部は見事な魚拓を飾るのだ。
文芸部の活動内容は本を読み、本を書く。それだけ。
保科は入学当初、まともに部活動をする気が無かった保科は誰もいない、いたとしても早く帰れるだろう文芸部に入学した。
今でこそ保科は、この選択をした自分を思い切り殴り飛ばしたい気分ではあるが、その時はそれが最善の選択だと思ったのだ。
実際、彼女はその時期恋愛リアリティショーに出演しており――当時その美貌で歴代最高の視聴率を叩き出し、一気にトップモデルの地位を確立した――学園に通う暇がなかった。故に唯一の部員にして部長でありながら、文芸部室はいつもがらんどうだった。
リアリティショーが結末を迎え、空琉も学園生活と仕事を両立できるようになった頃、全ての部活動に所属する者は自分の選択が間違いだったと悟る。
空琉は静かな時間を好むのか、暇な時はよく文芸部に居座る。
もしあの頃文芸部を選択し、邪魔な男子生徒を追い払いさえすれば、今彼女と二人きりになれたのは自分だった、と。
決して交わらぬ星の運命が、掠っただけでも奇跡。無から宇宙が生まれたかの如き奇跡だ。
それが、交際?
断じて有り得ない。否、有り得てはならない。
「えっと、聞き間違いですか?」
長い沈黙の中で保科は自分の耳が、あの一瞬だけ狂ったという可能性を信じ、静寂の帳を打ち破る。
だが眼前の女神は小首を傾げる。保科が何を言っているのか、分からないとでも言うように。
「……何が?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます