第3夜 クラスのマドンナ

 扉を開けると同時に、心地よい風と甘い鼻のような香りが教室中に充満する。

 榛色の腰まで届くロングヘアは、緩やかな螺旋を描いている。ぱっちりと開いた眼は、眠たげな猫のように蕩けており、その口端も緩んでいる。熟れた唇はチョコを纏った棒状のお菓子を煙草のように挟んでいた。

 浮かび上がった肉体のシルエットは、豊満と言う言葉では表しきれない。エベレストのような爆発的な双丘と、フィヨルドのような深い谷。そこを通り過ぎてまた訪れる高い丘。もし神が理想の女性の肉体を創造するとしたら、彼女の肉体を参考にするだろう。

 彼女こそが御酉夢久。皇星学園普通科二年、いわゆるクラスのマドンナである。彼女の席は二列目の最後尾。横の列では同じだが、残念ながら隣ではない。

 御酉は席が書き出された黒板に歩くが、視界に保科と私院が入ったのか一瞬歩みを止める。自らが男女問わず教室中の注目を集めているとは露知らず、彼女は小首を傾げ人差し指を顎に当て何かを考えると、手を小さく保科に振った。


「は?」


 そのまま通り過ぎる御酉を目で追いながら、私院が地声で呆けたような声を上げる。

 ギリギリと、軋むような音が幻聴で聞こえる程、私院の首がぎこちなく保科の方に向き直る。


「おい」

「……」

「おいお前、何だ? 裏切りか? 皇星学園裏切り者科か?」


 そんなものは無い。

 とは言え、俺にもこの状況は分からない。

 当然だが御酉と連絡先を交換した記憶は無い。百歩譲ってもし保科の記憶違いで交換していたとしても、気軽に連絡が出来る程仲良くなれる自信も無い。


「いやぁ……俺も何が何だか」

「寝ぼけたこと抜かしてんなよ。借金全部踏み倒すぞ」

「それは人としてどうなん? 千七百円な、耳揃えて返せよ」


 心当たりがあるとすれば、やはり空白の三か月。

 その考えに行き着いたのは、どうやら保科だけではないらしい。そして私院は、保科が覚えていないことまで知っている。


「あ、思い出した! お前文化祭実行委員だったじゃん?」

「えマジ?」

「確か御酉さんもだった筈。そこで仲良くなったんじゃねぇの死ね」

「シームレスに暴言に移るな」


 意外だが、私院のこの口ぶりから考えて嘘を言っている訳でもないだろう。

 億劫だ。弓のようにぴんと張った背筋で、机の周りに集まる友人たちと談笑している彼女を盗むように見る。こうしているのは保科だけではない。クラス中の男女問わず殆どの生徒が、彼女の事を意識している。

 そんな彼女に自ら話し掛けて、記憶喪失の事を話さねばならない。

 思春期真っ盛り。目立つのを避けたい保科にとっては、嫌以外の感想が浮かばない。


「お、揃ってんねー」


 教師が前側から教壇の前へ入ってくる。壁掛け時計は、もう授業開始の時間を指し示していた。

 新学期初日だ、大した授業はしない。

 まずは教師の自己紹介。黒板んに縦書きで記す『綿鍋玲わたなべれい』の字の美しさは、彼女が現代文の教師である事を示していた。

 その次は生徒の自己紹介。

 待ちに待った、という声がどこからか聞こえてきそうだ。自分から話しかけずとも、彼女が話してくれる。これを傾聴しない者は少ないだろう。


「御酉ですぅ。えーっと……あの、人見知り? なんでぇ、仲良くしてくれると嬉しいです! よろしくおねがいします」


 拍手喝采が巻き起こる。教壇から降りる時、僅かにこちらに目線が向いたのは、恐らく気のせいではないのだろう。


「私院有でっす。えー趣味はカフェ巡りで、あっ犬好きなんで犬カフェもよく行きます! 是非一緒に行きましょう! よろしくですー」


 この軽い男の自己紹介を、女子は皆虚ろな瞳で聞いていた。

 つつがなく自己紹介は終わり、今度はこの一週間の流れの確認。特筆すべきことも無い、正しく新学期と言った予定表だ。


「よぉーし。まだ早いけど、さっさと班決めして終わるかぁ。先生やっと二千台乗ったしレート戦で忙しいからさ」


 その言葉に男子の一部がざわついた。

 班決めは少しだけ不安である。せっかくなら友人を一人は含んで欲しい、でお馴染みの班決めだが、現在の机の並び順は横六列の、前六または七列になる。人数の関係上、縦六列は一番窓際の列だけだ。

 窓際の列を一列目とした時保科の列は五列目の最後尾。対して私院は三列目の前から五番、後ろから三番目の位置になる。

 どう足掻いても同じ班にはなれないだろう。

 因みに、御酉は二列目の最後尾。やはりどう転んでも同じ班にはならなそうだ。保科を一方的に知る御酉と、御酉を知らない保科。大変居心地が悪い班が簡単に想像できる。その点だけは、良かったというべきか。


「あー……めんどくせぇな。ここ六人だろ? ここも六人、でここも六人だろ? で、そうだな――」


 こうして気怠げな綿鍋先生により大雑把に班が定められていく。

 あっと言う間に縦横六列、六人班が出来上がる。余ったのは最後尾が七人目まである窓から二、六列の最後尾だけだ。


「あれ、これって……――」


 嫌な予想は的中した。


「おぉ、丁度良く余ったな。じゃあその一番後ろ、お前ら五人班な」

「嘘だろ……」

「じゃ、とりあえず組んでみろ。簡単にグループワークすっぞ。それ終わったら帰宅な。先生は全然残業だけどアッハッハッハ!!」


 ガタガタと一気に教室が騒がしくなる。机を持ち上げるのが面倒だと引きずる音、偶然同じクラスだった友人と話し合う声。そして、保科の前に机を並べた御酉が、溢れて零れたような笑みを浮かべる。


「久しぶりー、かずくん!」

「え、あ、うん、久しぶり」


 満開のひまわりのような屈託の無い笑顔に、思わず顔を逸らしてしまう。

 予想外だ。どうやら空白の三か月の間に随分と仲良くなっていたらしい。まさか、名前で呼び合う程の仲になっていたとは。

 どう説明したものか。取り敢えず、話がある事だけは伝えておくべきだろう。


「あーあの、御酉さん?」

「あれ、むくでいいって、言わなかったっけ……」


 萎んだ風船。もしくは、絵の具を零した描きかけのキャンバスか。先程までとは正反対に、しょんぼりと保科の顔を窺う御酉。

 級友の視線が刺すように痛い。


「えーっと、放課後用ある……んですけど、空いてます?」


 反転に反転。

 保科のその言葉を聞いた途端、萎れたひまわりが再び絢爛に咲き誇った。

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