第1夜 記憶喪失

 桜の花弁がひらひらと空中を彩り、青い空を飾っている。

 跳ねるように揺れ動くスカート。花びらを乗せて何処かへ運ぶボストンバッグ。新学期というものが描き出す光景は、様々な種類の希望に満ち溢れている。

 私立皇星学園。四月の光景である。

 普通科、芸能科、イラスト・アニメーション科が存在する私立高校。

 平均的な偏差値は全国トップクラス。過去には政治家、俳優、映画監督、歌手等。その門扉を潜った者は、様々な世界で活躍している。最近では時流に乗りイラスト・アニメーション科が新設され、更に入学難度を上げた由緒正しき名門校。

 そんな格式ある校舎に向かい、赤レンガが敷き詰められた桜並木を紺色の制服に身を包んだ少年少女が歩いていく。

 ただ、流れに逆らうように立ち止まる男子生徒が一人。


「こんなだったか?」


 数ヶ月前の記憶など、皇星学園普通科二年、保科一哉にとっては遥か昔の事だ。

 軽快な電子音と共にスマートフォンが激しく震える。メッセージアプリの通知音だ。顔認証でロックを通過し、手早くアプリを開く。


「遅刻寸前、しばし待たれよ……どうしてやろうかこいつ」


 デフォルメされたアニメキャラのアイコンで言われると、どこか苛立ちを覚えるのは彼だけではないだろう。

 思わぬところで待ちぼうけを喰らう事になった保科は、並木を守るように積まれた、道両端のレンガに腰を落とす。太ももの上に頬杖を突き、電子書籍を読み始める。この四ヶ月の間に、電子書籍はすっかり彼の相棒になっていた。

 さて前回の続きから。そうアプリを開いた瞬間、ふと道往く生徒の声が騒がしくなり保科は顔を上げた。


「うわぁ、見てあの人。超キレイ……」

「待って、あれ陽來ちようくるじゃない!? ここの芸能科だったんだ……」


 ぱっちりと開いた切れ長の黒い瞳に、夜空を撚ったかのような黒髪のロングヘア。時折白く輝いて見えるほどの雪の如ききめ細やかな肌と、薄桃色の潤んだ唇とのコントラストが彼女を浮世離れした美人へと演出している。

 身長は百七十を優に超える。伸縮する生地がかわいそうな豊満に盛り上がった胸部に、谷の如き緩急のある腰回り。肩に掛けた通学鞄を支える指はさも玉枝。腕も、脚も、ニーソに秘匿された太腿も。細くしなやかで、時折浮き出る骨のシルエットさえ調度品のような調和を感じさせる。

 芸名千陽來ちようくる、本名は空琉那子くうるなこ。芸能科三年生所属。生徒会副会長兼、現役ファッションモデル。

 高校三年生にして大人気ファンション雑誌の表紙を何度も飾り、SNSのフォロワーは五万を有に超える。ラジオ、ネット番組と活躍の場は幅広く、先日は地上波テレビ出演も果たしたまさしく今をときめくモデル。

 住む世界が違う、雲の上の存在だ。ローファーを打ち鳴らすそんな彼女を寝ぼけ眼で見つめていると、彼女と目が合う。

 だが、彼女は何一つ表情を変えること無く視線を戻す。彼女の眼中には、彼など石ころ同然と言うことなのか。

 空琉はそのまま通り過ぎかと思われたが、直後に明確に歩速を緩め、スカートのポケットからスマホを取り出し、何やら打ち込み始めた。

 スマホのバイブレーションがメッセージの着信を知らせる。


〈おはよう。怪我はもう大丈夫なの?〉


 白い背景の中心にぽつんとある、小さな黒い猫のシルエットのアイコン。ハンドルネームは、人見知り。

 トーク画面を開くと、黒猫が首を傾げ、クエスチョンマークを浮かべるスタンプがトークの下に滑り込んだ。


〈先輩のお陰でこの通りです〉

〈私なにもしてない。そもそもコロナでずっと面会禁止だったじゃん〉


 ご尤もである。

 四ヶ月前、保科一哉は交通事故を引き起こした。

 相手は前方不注意のトラック。盛大に撥ねられ何度もバウンドした彼だったが、数カ所の骨折はあれど奇跡的に命に別状はなし。

 四ヶ月の入院を経て新学期。こうして保科は数カ月ぶりの登校を果たしたのだ。

 世界的に大流行した感染病を危惧し、病院は家族以外の面会を禁じた。

 実に淋しい時間であったのだが、こうして知り合いからメッセージが来ると、いよいよ高校生活が帰ってきたのだという実感が湧いてくる。


〈きょう部室きて。いろいろ話したいことあるから〉

〈あいたたた、骨折が……〉

〈ほんと?〉


 スマホから顔を上げると、十歩ほど前で立ち止まっていた空琉が、猫のように眼を丸くしてこちらを見下ろしていた。

 ぱちぱちとまばたきだけするその姿は、まるで思考を停止したハムスターのようだ。

 冗談をここまで本気に取られるとは思わず、保科は空琉を見上げたままメッセージでの会話をやめた。


「えっと……冗談です」


 そう口にした瞬間ぷいと頭を後者の方に向け、速歩きで空琉が去っていく。どうやら怒らせてしまったらしい。


〈強制〉

〈はい〉

〈あと、あんまマジマジ見んな〉


 空琉那子は、生徒会副会長、ファッションモデルでありながら、この皇星学園でたった二人しかいない文芸部の部長。もう一人の部員は、察しの通りである。

 空琉からのやり取りが終わったと思えば、今度はけたたましく着信音が鳴り響く。画面には表示には「彼女募集」というふざけた名前が表示されていた。その相手が誰かは知っている。応答のボタンを押すと、勢いだけの謝罪が鼓膜を劈く。


『スマン!! 今どこ!?』

『並木』

『あーあの座ってる冴えない童貞?』

『それはお前もだろぶん殴るぞ』

「リハビリ上がりの拳が怖いかよカス」


 いつの間にか、声は電話越しではなくなっていた。

 身長百八十二センチメートル。紫のメッシュが入った黒のツーブロックに、巨大な黒のボストンバッグ。着崩した制服に、白い肌着。顔は二枚目、客観的に見てイケメンに分類される容姿だろう。

 私院悠しいんゆう。保科の同級生だ。


ゆうお前な、人前で童貞とか騒ぐんじゃねぇよ」

「は? 童貞ってアピっとけばエロいお姉さんが捨てさせてくれるかも知れねぇだろ」

「ねぇわボケ。エロゲのやり過ぎ」


 こうして軽口を叩き合っていると、高校生活が戻ってきた実感が更に高まってくる。

 空琉にしろ、私院にしろ、四ヶ月の間に忘れ去られていなくて良かった。だが、一つだけ保科には懸念点があった。


「ごめんこれ、割と大事な話なんだけど」

「え、何? もしかして看護師さんに抜いてもらった……?」

「男だった。てかそういうのいいから、よく聞けよ」


 路面の凍った一月初旬、トラックとの衝突事故。

 本来ならば生きているだけでも奇跡と言っていい。それが、全身の強い打撲と数カ所の骨折。

 しかし入院中。保科には新たな症状が発覚する。


「俺、事故前三ヶ月の記憶ねぇの」

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