死の商人ノーベルの誤報

区隅 憲(クズミケン)

死の商人ノーベルの誤報

 1888年某日、フィガロ新聞社にアルフレッド・ノーベルが死去したという電報が入った。その報せを受けたフィガロ社の編集長は若手記者を呼び寄せる。


「おい新入り! お前がアルフレッドの記事を書け」


 指令を受けた若手記者は困惑の表情を浮かべる。


「えっ? アルフレッド? 私は、その人物についてあまり存じてないのですが……」


「ったく、そんなことも知らないのか? これだから田舎の出の奴は。これぐらい知っておかなきゃ新聞記者なんぞ務まらんぞ」


「す、すみません」


 何度目かになる上司の小言に記者は平謝りする。編集長はため息を付きながら説明した。


「アルフレッド・ノーベルというのは発明の王だ。『ダイナマイト』っていう爆薬を作ったことで有名だな。だが奴はそのダイナマイトを世界中の国々で売り捌き、戦争の道具として利用させたんだ。そして奴の『ダイナマイト』のせいで大勢の人間が死んだ。奴の巨万の富と引き換えにな」


 その話を聞いて若手記者はゾッとする。

そんな恐ろしい男が、このパリの街にも存在していたなんて……。


「奴は悪魔だよ。金のためなら人殺しも厭わない血も涙もない金の亡者さ。だから見出しはこうさ。『死の商人、死す』」


 そう力強く言うと、編集長はバサリ、と紙の束を若手記者に押しつけた。そして仕事の内容を付け加える。


「明日の早朝までに記事をまとめろ。その資料にアルフレッドに関する情報がまとめてある。なるべく悪しざまに書けよ。大衆たちも18年前の普仏戦争以来、アルフレッドを忌み嫌っているからな」


 編集長の態度は頑としたものだった。だが若手記者は口を噤み、尻込みをしてしまう。


「で、ですが、私はそのアルフレッドという人物についてはほとんど知りません。そんな私が、果たして数枚の資料を読んだだけで記事を書いてもいいのでしょうか? ましてや他人の酷評を書くなど……」


「お前は何もわかってないな。いいか? 新聞ってのはセンセーショナルが大事なんだよ。大衆の興味をいかに惹き付けて、大量に紙面を売り捌くのかが重要なんだ。お前には文才がある。だから拾ってやったんだ。そのことをゆめゆめ忘れるなよ」


 念を押すように言うと、編集長は顎をしゃくり若手記者のデスクを示す。

若手記者は疑問に思いながらも、結局自分の席に戻り、資料を読み込む。


 そして書き出しの一文を書いた。


『可能な限りの最短時間でかつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物が昨日、死亡した』



*****


 翌朝、フィガロ社の新聞はパリの街中に飛び交った。

アルフレッド・ノーベルの死。それはパリ中の人々の関心を惹いたのだった。


「ねぇ知ってる? あのアルフレッド・ノーベルが昨日死んだんですって」


「まぁ、あの『ダイナマイト王』って言われてた発明家が? でもよかったわぁ。あの人、戦争を度々勃発させた原因だっていうもの」


 パリの人々はフィガロ社の新聞を読み、悪しざまにアルフレッドを罵った。

市井はアルフレッドの話で持ち切りだった。だが誰一人としてアルフレッドを追悼するものはいない。


(俺の記事が、もう街の人たちに出回っているのか)


 パリの街を歩く若手記者は、婦人たちがひそひそと井戸端会議するのを耳にした。

アルフレッド・ノーベルという男は、こんなにパリの街の人たちから忌み嫌われていたのか。


 だがどうにも若手記者は居心地が悪かった。

自分のよく知りもしない男が、ほとんどでっち上げで書いたに等しい自分の記事によって非難されている。

チクリ、とどこか胸が痛むのを感じた。


(果たしてアルフレッドとは、本当に残忍で欲深い男だったのだろうか?)


 疑問に思いながらも、記者は歩調を早めて今日の約束の場所へ向かうことにした。



*****



 ホテルの一室に着くと、既に記者クラブの同業者たちが集まっていた。

若手記者はまだパリの街に馴染んでおらず、彼らから情報をもらうことを日課にしていた。


「いやぁ、まさかあのアルフレッドが55歳で死ぬとは思いませんでしたよ。ああいう欲深な男は決まって長生きするものだというのに」


「因果応報って奴だよ。殺人兵器を世界中の国々で売り飛ばしたツケが回ってきたんだ。あの男が死んでパリの市民たちもせいせいしてるだろうよ」


 仲間の記者たちは散々にアルフレッドを酷評する。

そんな中で若手記者が席に着くと、新聞に目を通していたある記者が声をかけてきた。


「おたくんところのフィガロ社はこれまた随分と派手な見出しをつけたものだね。『死の商人、死す』か。言い得て妙だな。あの男にはぴったりな呼び名だよ。この記事を書いた記者にも会ってみたいね」


「あはは……そうですか」


 若手記者は苦味の混じった愛想笑いを浮かべる。

その記事を書いたのは自分だと言うのは憚られた。

だがそんなアルフレッド非難一色の空気の中で、一人の記者が刺々しい眼差しを送っていた。


「ん? どうした? おたく、何か妙に神妙な顔をしてるじゃないか」


「いや、なんだ。そのアルフレッドについてなんだがな……俺が独自に調査をしたところ、昨日死んだのはアルフレッドの兄のルードヴィのほうなんだそうだ」


 途端、記者たちは顔を凍りつかせる。

皆一様にアルフレッドが亡くなったという誤報の記事を書いていたからだ。


「それからな、俺はルードヴィの屋敷で働いている召使いとも会ったよ。その女の案内でルードヴィの屋敷まで行ってな。そこでアルフレッドの母親とも会った。そのご婦人によると、アルフレッドがダイナマイトを発明したのは、戦争の激化を防ぐことが目的だったんだそうだ。絶大な威力を誇る兵器があれば、人間はおいそれと相手に手出しをすることができなくなり、それで戦争を抑止する力になるだろうと考えたらしい。


 だが、結局彼のその考えも宛てが外れたみたいでな。アルフレッドはダイナマイトを発明したことを後悔したという。それで今となっては、ベルダ・フォン・ズットナーという女性の平和活動家と協力して、戦争反対の公演も行っているというらしい」


 記者たちは押し黙り、何とも言えない苦い顔を作る。

その話が本当だとしたら、アルフレッドは自分たちが記事に書いたような極悪人ではないということだ。

だがそんな重い空気の中、一人の記者が口を開く。


「しかし、アルフレッドがどんな思想を持っていたにしろ、ダイナマイトを世に広めたのは事実だろ? アルフレッドの発明のせいで大勢の人々が殺された事実は曲げようもない」


「……確かにお前さんの言う通り、アルフレッドの発明が様々な戦争の道具として利用されたことは間違いない。我々は記者として事実をありのままに伝える責務がある。だが俺はお前さんたちのように、過剰に煽情的な記事を書いて、立場の偏った情報を市民たちに広げることが正しいとは思えない。……お前さんたちの記事は今すぐにでも訂正すべきだよ」


 アルフレッドの母親と出会った記者はそう告げると、ホテルの一室から出ていった。



*****



 その後、その日の記者クラブが解散となると、若手記者は当初の予定を破って蒸気機関車に乗った。行き先は昨日亡くなったルードヴィの屋敷だった。アルフレッドの母親はそこに住んでいる。


(俺は一体何をやっているのだろう? 編集長から言われた約束をすっぽかしてまで)


 アルフレッドの記事は続報の予定はない。今やっている自分の行動はフィガロ社からすれば余計な行動だった。


(だけど、俺自身真実を知りたい。本当にアルフレッドは、金のために殺人兵器を売るような悪党だったのか?)


 そしてルードヴィの屋敷にまで着いた。

若手記者はちょうど庭の手入れをしていた使用人を見つけ、アルフレッドの母親がいるか尋ねる。


「奥様はルードヴィ様が亡くなった心労が祟り、今は部屋で療養を取っております」


 その後、何とか使用人を説得して、アルフレッドの母親の元まで案内してもらった。

部屋に入ると、まだ昼間だというのに、室内はどこか暗澹あんたんとした雰囲気が漂っている。


 部屋の隅を見ると、そこには年老いた婦人がいた。

彼女はベッドから半身を起こしており、そしてその皺だらけの両手には新聞紙が握りしめられていた。

顔を眺めてみると、穏やかで優しそうな表情をしている。とても殺人兵器を大量に作った男の母親だとは思えない。


「あなたが件の記者の方ね。これで新聞社の方がいらしたのは何度目かしら?」


 そう呟くと、老婦人は自身の名がアンドリエッテ・ノーベルだと名乗る。

若手記者も自己紹介をし、促された椅子に腰を下ろした。


「あの子は……アルフレッドは、いま『死の商人』とパリでは言われていますね」


 アンドリエッテが強く新聞を握りしめながら若手記者を見据える。その真摯で強い眼差しを受けて、若手記者はたじろいだ。


「この記事を書いたのはあなたですか?」


 見据えたまま、アンドリエッテは尋ねる。

その瞬間、若手記者の心臓がドキリと高鳴った。


「えっ? どうして?」


「あなたがここへ来た時からずっと、申し訳なさそうに私から視線を逸らしているからです」


 しばらく若手記者は押し黙る。

だがその沈黙は問いに対して首肯しているのと変わりなかった。

やがてアンドリエッテは窓の外へと視線を移し、呟くように口を開く。


「あの子は、昔から優しい子でした」


 そう切り出し、外の景色を見上げたまま言葉を紡いだ。


「私の夫も発明家だったんですけどね、事業に失敗してしまい、そのせいで家族みんなが貧しい暮らしをしていたんです。そのためにまだ子供だったあの子は『お父さんみたいに発明家になって、家族みんなを裕福にするんだ!』って口癖のように言っていたんです。それであの子も父親に似て、ずっと発明の仕事ばかりするようになりました。やがてそれが20歳、30歳と過ぎても続くようになり、あの子はとうとうダイナマイトを発明しました」


 アンドリエッテはそこで言葉を区切り、顔を俯けた。


「当時から安定した起爆剤の需要は世の中では高かったですわ。鉱山の発掘をしたり、トンネルを掘ったり……。


 ですがダイナマイトを発明するまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでしたわ。私の末子――あの子にとって弟に当たるエミールは、あの子の実験を手伝う最中、事故で亡くなりましたの。あの子が火薬の量産に使っていた工場が爆発しましてね。それでその爆発事故は、街の人たちも巻き込んでしまいましたわ。それが原因で私たち一家は、街を出ていくことになりましたの」


 アンドリエッテは表情に影を落とし、亡き末子を悼む面差しを見せる。


「私たち家族はその後、人目を忍んでひっそりと生きてきたのです。それでもあの子は、爆薬の研究を止めなかった。あの子は弟のエミールの死を無駄にしたくない一心で、そして家族の幸せを願って、起爆剤を安全に使う方法をずっと探し続けたのです。


 あの子は優しい子です。誰よりも家族のことを想い、人が安全に使えるための爆薬を完成させたいと情熱を捧げていました」


 訥々とつとつと語るアンドリエッテは記者のほうへ振り返る。その瞳には涙が浮かんでいた。


「あの子はダイナマイトを、決して人を殺すために発明したわけではありません。爆発事故で人が死なないために、命がけで爆薬と向き合い続けてきたのです。あの子は、優しい子です。家族を守るために、誰も死ななくてよい未来のために、ダイナマイトを発明したのです。


 けれど、人の欲とは際限ないものです。結局あの子が人の命を守るために発明したダイナマイトは、人殺しの道具として利用されてしまった。この世に悪用されないものはありません。18年前の普仏戦争で、あの子が誰かを守りたいと願った発明が、多くの人を殺めてしまったのです」


 一筋の雫がアンドリエッテの瞳から溢れる。けれど彼女はすぐに、その瞳に真摯な光を宿した。

 

「あの子は、それを悔いています。自分の発明が、自分の祈願だった家族の幸せが、誰かの命を奪うことになった運命を。それでも、あの子は発明を止めなかった。今度はもっと、人が豊かで平和になれる発明をしようと、そう願ったのです。今も故郷を離れて、あの子は研究に没頭しています。


 だから、だから――あの子は、決して『死の商人』と呼ばれるような人物ではありません。誰よりも発明を愛し、誰よりも家族のことを愛していた。ただそれだけの、優しい子なのです。だから、だから――」


 アンドリエッテは力強く記者を見据える。


「あの子のことを、どうか誤解なきようにお願いします。あの子は繊細で、傷つきやすい性格です。あの子がこの新聞を読んで、どれだけ傷ついているかと思うと、胸が痛くて堪りません。だからどうか、お願いします」


 アンドリエッテは頭を下げる。

年老いていて、息子を亡くしたばかりで疲れ果てているはずの体が震えている。

その小さな体は、平和を願う息子への愛情で満ち溢れていた。



******



 その後、若手記者はフィガロ本社へと帰社した。

編集長から約束をすっぽかしたことを散々叱られると、平謝りを続ける。

それでも若手記者は、編集長に報告したいことがあった。


「あの、編集長。お話があります」


 そして有体にアンドリエッテが語ったアルフレッドの人物像について伝える。

家族を愛し、誰よりも人の命を重んじていた男の話を。

そして、昨日の記事の訂正をすべきだと訴えかけた。


 だが、編集長から返ってきた言葉は予想とは違うものだった。


「ダメだ。今さら論旨を変えた記事など出せん」


 その言葉を聞いて衝撃を受けた若手記者は、すぐに編集長に反駁はんばくする。


「どうしてですか!? アルフレッドがダイナマイトを発明したのは、人の命を守るためだったのですよ? 武器を売り捌いて金儲けを企む悪党ではなかったのです!」


「仮にそうだとしても、一度出回った風評を覆すことは困難だ。元々アルフレッドが『死の商人』だと言われていたことは事実だし、民衆たちも既に悪党だという認識で奴を見ている。そんな渦中で『アルフレッドは実は心優しい男だった』なんて記事を出してみろ。民衆たちはこぞって我々フィガロ社を非難するぞ! そんな事になれば、我が社の信用は地に堕ちてしまう」


 編集長の言葉に、若手記者はグッと拳を握りしめる。


(そんなの、ただの保身じゃないか!)


 そして若手記者は奥歯を噛みしめる。

自分の立場を守るために、誤った情報で他者を貶めたままにするなんて、そんなことが許されるのか? 


 編集長は「一度広がった風評は覆せない」と訴えを退けた。

だからといって、アルフレッドの汚された名誉をそのままにしていいわけがない。


 発明王と言われた彼が歴史に名を残すことは明白だ。

だがそれは同時に、彼が『死の商人』と呼ばれた汚名も永遠に付き纏うことになってしまうだろう。


 一度被せられた汚名は二度と晴らすことができない。

風説を撒き散らし、他者の名誉を永遠に殺すことができてしまう我々こそ『死の商人』と呼べるのではないのか?


「……とにかく、記事の訂正はしない。お前は仕事に戻れ」


 冷淡に編集長は若手記者に指示を告げる。

若手記者は何も言わず、編集長に背を向けた。


(あんたが俺を拾ってくれたのは感謝してる。だけどもう、ここまでだ)


 そして若手記者は机の中からそっと辞表を取り出す。

それがアルフレッドの名誉を傷つけてしまった己にできる、せめてもの償いだった。

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