入社初日。オリエンテーション

合格が決まって1週間が経過した。俺は二日スーツを着て会社へ。

今回は部会社ではなく社員としてビルに入るのだ。


その会社のことは、退職後も守秘義務があるため詳細は延べられない。

田舎では比較的都会の市にある会社。

4階建てのビルの中にコールセンターのテナントが入っていた。


(今日が初めての出勤か。緊張するなぁ……)

エレベーターに乗る。2階に間違いないな、と思ってスイッチを押す。

エレベーターの鏡で自分のネクタイが曲がってないか確認した。


エレベーターを降りた瞬間だった。若い女性が二人そこに建っていた。

もしかして先輩社員の方なのかと思ったが、二人とも居場所のなさそうな感じで

立ち尽くしている。


「あ、男性の方だ。もしかして…」

そのうちの一人、160センチくらいの身長の女性が話しかけてきた。

黒髪のショートカット。決して美人ではない。なぜか満面の笑みだった。


「今日から入社する人ですか?」

「は、はい。そうですが、あなたもそうですか?」

「そうですよ!! 中途採用です。始めまして。私は吉井と申します」

「は、はあ。初めまして。僕の名前は委員長です。よろしくお願いします」


すると、もう一人の女性も話しかけてきた。小柄で155センチもないだろう。

「どうも。初めまして。今日からお世話になります。古谷です」


この人も中途採用者らしい。長い茶髪でこちらはそれなりの美人だった。

ふたりとも、俺より年上なのは一目見てわかった。

「よしい」さんと「ふるや」さん。この二人とは今後も同じ職場で働く仲間なのでしっかりと名前を覚えないと。


「委員長さんって、お若いですねぇ!! 失礼ですが、おいくつなんですか?」

「に、22です。あはは」

「お若いですね。見た目20くらいに見えますよ!!」

「あはは……たぶん童顔なので若く見えるのかと……」


この吉井さん。ずいぶんと明るい人だった。

いかにも営業レディって感じで、初対面の人にも気さくに声を掛ける。

なぜだか目がキラキラとしていた。


今では信じられないだろうが、当時の俺はまだ社会人生活1年目。

人と話すのは大の苦手で内気な青年だった。特に女性と話すのは苦手だった。


若い俺には、社会にいる「大人」の実態がわからなかった。


社会では、みんながどういう風に働いているのだろう?

社会人って、どんな人たちなんだろう?

大人の人たちって、休みの日はどうして過ごしているのだろう。

職場の人間関係って何なんだろう。結婚ってなんだ?


大人ってなんだ?

仕事ってそもそも何をしてるのだ?


俺には知らないことばかりだった。


大学3年の時、20歳になった。俺は成人したが、中身は子供のままだった。

成人式の日、俺の同級生たちは成人の祝いとして酒を飲んでいたが、俺は子供が酒を飲むことはおかしいと思っていた。理由は自立してないからだ。親に高い学費を払って大学に通わせてもらっている身で、何が大人なのか。それは大人のフリをしているだけだ。本当に大人と呼べるのは高校を出てすぐに働いている人だろう。

彼らはきちんと自分の稼いだお金でお酒を飲んでいるのだから。


俺は自分で稼いだ金じゃない限りお酒は絶対に飲まないと決めていた。

俺は親に迷惑をかけないことだけを考えて大学時代を過ごしていた。

お小遣いは0円。バイトの代わりに実家の農作業を手伝っていた。

夏休みは祖母の農作業を手伝っていた。大学三年の時に家に近いサンクスでアルバイトをやった。だけどつまらなくて3か月で辞めてしまった。

学生やフリーターの多いサンクスでの仕事では「大人の世界」が味わえなかった。


俺は大人の働いてる現場を知りたかった。経済の仕組みがどうなっているのか知りたかった。今回のコールセンターの仕事は、ごく一部の派遣を除けば、正社員が中心となって回している職場だ。間違いなく立派な大人の集まりなのだろうと信じていた。


俺たち新入社員3名は、エレベーター前でたむろしていた。

「あの……僕たち、ここでどうすればいいんでしょうか?」

「待機場所に指定されたのはここですから、ここで待ってましょうよ。

 そのうち誰かが迎えに来てくれるんじゃないですか?」


吉井さんは本当に明るい感じの人だった。

女性にしては声が若干低めだけど良く通る。

良く言えば温かみのある声だった。


8時前のこの時間帯、エレベーターから降りてくる社員さん達がいる。

その人たちが俺たちの前を通り過ぎるたび、吉井さんは大きな声で

「お疲れ様です!!」と声を掛けるので、俺と古井さんも真似をする。


(なるほど。オフィスの中ではこうしてすれ違うたびにお疲れさまって言うのか……) 吉井さんは腰を深く追って見知らぬ人たちに挨拶をしていく。


俺は彼女の動作から挨拶の基本をしっかりと学んでいた。

古谷さんは緊張しているのが顔が暗かった。俺も同じだったと思う。

俺たち三人の前をどれだけ多くの人が通過しただろうか。

俺たちにでかい声で挨拶をされて恐縮してるおじさんもいた。


男性の2人組がこんな話をしていた。

「あいつら。あそこでなにやってんだ? 営業か?」

「たぶん今日から入社する奴らなんじゃねえの?」


……なんだか無性に恥ずかしくなった。だがエレベーターの前で待機してろと

の命令なので従うしかない。


「あらあら。すでに皆さんお揃いでしたね……」

早歩きで笑顔の女性が近づいてくる。この人は面接の時にいた偉い人。

40代くらいのマネージャーの女性だ。我々は恐縮して頭を下げる。


「お待たせしちゃってすみません。

 今から別室に案内しますのでこちらへどうぞ」


その人の背中を見ながら3人で歩く。


そこは小さな会議室と言った風の部屋だった。

明日からここで3日間、研究を行うそうだ。3日間の研修が終わってから

それぞれの部署に配属される流れだ。研究を担当してくれるのは、佐藤さんという女性社員。見た目40代のベテラン社員だ。ショートカットの濃い茶髪でおでこをはっきり出している。


「今回採用となったのは5人となっております」

その女性が丁寧に話をする。この人も営業スマイルがすごい。


「今日来ていただいたのは、委員長さん、吉井さん、古谷さんの3人です。

他の2名は今日の午前中は都合がつかないのでここにはいませんが、午後から出社していただく予定となってます。明日からは合流して5人で研修を受けていただきます。今日は入社に必要な書類の説明をしますので、まずは書類を皆さんにお配りしますね」


その日は入社書類一式を受け取って簡単な説明を受けただけなので、12時前に解散となった。駐車場は照り返しで焼けるように熱い。車の中は灼熱となっている。


「それじゃあ、また明日もよろしくお願いします」

「はい。こちらこそ」

「お疲れ様でした」


俺たち3名はそれぞれに挨拶を交わして車のキーを回した。

俺はうだるような暑さの中でスーツの上着を助手席に脱ぎすてるだけでなく

Yシャツまで脱いで肌着だけになった。車のエアコンを全開にして車を走り出す。


あの日は、とても暑い日だったけど、幸せな日だった。

これから本当の社会人としての生活が始まるのだと、まだ夢と希望に満ちていた。

22歳の若者。俺はまだまだ子供だった。生まれたばかりの赤ん坊と大差がなかった。社会が、企業が、どれだけ大きな存在なのかも知らなかったのだ。


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